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【竹鶴政孝(マッサン)とリタ】
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三級酒の意地
余市は、戦時中、空襲を受けませんでした。
「ウイスキー工場があったからじゃないか?」
そうまことしやかに言われていたそうですが、真相は不明です。
ともあれ、戦争の最中にも竹鶴が作った原酒は守られ続けました。
戦後まもなくはまだまだ食料難が続きますが、竹鶴家は例外でした。
進駐軍の兵士たちは、イギリス出身のリタを見舞いにお土産を持ってやってくるのです。
酒も貴重で、ウイスキー1本と米1俵を交換することもできました。
しかし、ウイスキー作りではまたも竹鶴の頑固さが壁となってぶつかります。
余市蒸留所は例外中の例外で、終戦直後の日本では酒はろくなものがありません。
都市部の闇市では「カストリ酒」と呼ばれるあやしげな密造焼酎が飲まれているほど。
そんな最中、じっくりと熟成された余市蒸留所のウイスキーは、むしろオーバースペック。
市場に出回っているのは、原酒がほとんど入っていないイミテーションウイスキーであったのです。
当時の酒税法では、「三級酒」の規定はこうでした。
【原酒混和率5〜0パーセント】
つまり一滴の原酒も入っていない、ただアルコールに色をつけたようなものであってもウイスキー扱いされたのです。
「わしゃ三級なんぞ出さんぞ!」
そう息巻く竹鶴ですが、経営陣は許そうとしません。
竹鶴はそれでもなんとかよい三級酒を造るため、上限の5パーセントまで原酒を使い、合成着色料ではなく専用のカラメルを用いた三級酒を造りました。他社よりもやや割高でした。
それでも香りは薄く、退色しやすい酒です。
悔し涙を流しつつ、竹鶴は三級酒を売るほかありませんでした。
ウイスキーブーム到来
戦後の焼け野原からなんとか復興した1950年代。
ついに竹鶴に大いなる追い風が吹くこととなります。
日本にかつてないほどのウイスキーブームが起きたのです。
そこで1952年(昭和27年)。
竹鶴は社名を「大日本果汁」から「ニッカウヰスキー」に変更、その波に全力で乗ります。
・ブラックニッカ
・丸びんニッキー(1962年販売終了)
・ハイニッカ
ライバルとなったサントリーと競い合うようにして、ニッカのウヰスキーも軌道に乗り始めました。
ちなみに竹鶴自身が晩酌で好んで飲んでいたのは、庶民的な価格帯のハイニッカだそうです。
晩年まで一日一本は開けていたとか。
ニッカの社長なのだから、さぞや高級なものを飲んでいるのかと思えば、庶民的なウイスキーを愛していたのですね。
なんだかチキンラーメンをずっと食べていた安藤百福さんみたいですが、竹鶴としては【一番売れるものを飲む】と語っていたそうです。
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竹鶴は朝に一度しか歯を磨きませんでしたが、それでも虫歯が無かったのは、本人曰く、
「ウイスキーの水割りで消毒しているからじゃ」
だそうです。
最愛の妻・リタとの別れ
しかし、竹鶴とともに歩んだリタには、その成功を喜ぶだけの時間はあまり残されていませんでした。
ウイスキー事業が軌道に乗り始めた頃から、彼女は体調を崩し始めたのです。
1959年(昭和34年)、リタの妹ルーシーが来日した際、竹鶴は里帰りを勧めました。
が、リタは、飛行機が嫌いだからと断ります。
このころから、いよいよ体調悪化はひどくなっておりました。
そしてその2年後の1961年(昭和36年)1月、リタは帰らぬ人ととなってしまいます。
享年64。
愛妻の死から二日間、竹鶴は部屋に籠もりきりでした。
火葬場にも赴かず、遺骨を香炉に入れさせました。
その香炉とともに、墓ができるまで寝食をともにしております。
1年後、リタのプロテスタント式の墓ができあがりました。
そこにはリタだけではなく、竹鶴の名と刻まれていたのです。
そして、この一文。
“IN LOVING MEMORY OF LITA TAKETSURU”
竹鶴は、愛についてこう語っていました。
「愛というのは、相手の幸せを願うもの。お互いの幸せが何であるかを見極めて行動することが愛だと思う」
そうかと思えば、周囲にはこんなコトも言っていたそうです。
「国際結婚だけはするなよ」
むろん、言葉をそのまま受け取るのではなく、先に亡くなってしまったリタへの複雑な思いがあることを知らされます。
体があまり丈夫でないリタ。
日本という異国に来なければ、スコットランドで暮らしていれば、妹たちのように長生きできたかもしれない。
自分と結婚したことで、リタは寿命を縮めてしまったのではないだろうか――彼はそんな自責の念にかられていたのです。
その辛い気持ちがあればこそ、国際結婚を周囲には勧めなかったのでしょう。
最愛の妻の死。
それでも竹鶴は前を向き、歩き始めます。
翌年、竹鶴は一切の妥協のない、特別なウイスキーを作りました。
クリスタルの優美なシルエットの瓶につめられたそのウイスキーは、「スーパーニッカ」と名付けられました。
最愛の妻・リタへの思いを込めたものであり、リタの死という衝撃から竹鶴が立ち直るためにブレンドしたもので、大卒初任給が1万5千円程度の時代に、価格は3千円です。
それでも飲みやすく、味わいのある一本として人気を博しました。
ウイスキーとともに生きて
竹鶴は、走り続けました。
1963年(昭和38年)。
スコットランド留学時代からの夢であった「カフェ式連続式蒸溜機」を導入。
続く1969年(昭和44年)には「宮城峡蒸溜所」の竣工にとりかかります。
標高が高い余市が「ハイランド」(高地)に対して、宮城は「ローランド」(低地)と呼ばれまして、スコットランドに由来する呼び方です。
※宮城は、余市よりも軽快な味わいが特徴とされます。
そして同年には、勲三等瑞宝章を受章。
北海道でも、1970年(昭和45年)に開発功労賞を受章すると、それから9年後の1979年(昭和54年)に死去。
享年85。
リタと同じ墓に埋葬されました。
★
竹鶴は、思い切り働き、そして遊ぶ人でした。
ウイスキー作りにかけては厳しいものの、社員思いの人物でもあります。余暇を大切にし、彼自身も魚釣りや熊狩を楽しみました。
勤め人が仕事を終えて、晩酌を楽しんでこそ豊かな人生であると考えていた竹鶴。
晩年までウイスキーを飲み、薄い堅焼きせんべいをつまみにすることも多かったそうです。
ニッカウヰスキーのボトルに描かれた紋章は、一見、西洋由来に見えます。
紋章学に基づいたもので、そのモチーフは狛犬であり、日本由来のものです。
これぞまさしくニッカの真髄ではないでしょうか?
本場スコットランドの流儀で作りながら、日本の魂を吹き込まれたものなのです。
スコットランドと日本の融合――。
そこから連想させるのは、やはり竹鶴夫妻。
互いに愛し合い、尊重し、異なる国に生まれても一つであろうとしたマッサンとリタ。
ニッカのウイスキーには、国境を越えた思いが詰まっているのです。
今夜の皆さん一杯は、二人に捧げてみてはいかがでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【TOP画像】
植松三十里『リタとマッサン (集英社文庫)』(→amazon)
【参考文献】
竹鶴孝太郎『父・マッサンの遺言』(→amazon)
千石涼太郎『竹鶴とリタの夢』(→amazon)
土屋守/輿水精一/茂木健一郎『ジャパニーズウイスキー (とんぼの本)』(→amazon)
土屋守『ブレンデッドウィスキー大全』(→amazon)