こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【幻の東京五輪】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
紀元2600年記念日本万国博覧会も!
夏季と冬季五輪開催が決定した日本。
五輪招致決定前には、万博の開催にも乗り出していました。
時計の針を少々戻すこと1935年(昭和10年)、国内では「紀元2600年記念日本万国博覧会」の開催計画が動き出しました。
とはいえ、計画は割とグダグダしておりまして。
組織委員会の編成や予算確保で足踏み状態が続き、本格始動をしたのは1937年(昭和12年)のことです。
夏季・冬季オリンピックだけでなく、さらには万博まで一気に開催することとなった日本。
こんなことは現代では不可能ですし、当時だって前代未聞です。
芸能界からスポーツ界まで盛り上がり、世間は五輪特需にわきました。
ロゴ入り商品が飛ぶように売れ、人々は世紀の祭典を待ちわびていたのです。
とはいえ、これだけの大事業を一度に、しかも初めて行おうというのですから当然失敗も出てきます。
五輪ポスターではスペルミスが見つかったり。
五輪ロゴが商標登録されていたことがわかってモメたり。
東京五輪ポスターのコンペに至っては、一等賞を取った図案に神武天皇が印刷されていたことが判明して、コンペそのものがお流れになったりしました。
計画も二転三転です。
会場を作るにせよ、期日に間に合うのか、いろいろと状況が危うくなっていくのです。
なぜなら1937年(昭和12年)、泥沼の日中戦争が本格化するのでした。
揉めに揉めた総会 その帰路の船上で……
それは五輪招致が決定してから約2年後のことでした。
1938年(昭和13年)になって、IOC側が、五輪と万博の同時開催に難色を示し始めました。
過去にも1900年(明治33年)のパリ、1904年(明治37年)のセントルイスにおいて、五輪と万博のセット開催はありました。
しかし、世界的イベントの同時開催は、やっぱりムリがあり、進行はグダグダになっていたのです。
IOCとしてはその轍を踏みたくはない。
では、どうするか? と、1938年のIOCカイロ総会では東京五輪について徹底して話し合われ、悲願の日本開催が流れ……かけました。
議論は揉めに揉め、最終的にはなんとか妥協されるのです。
嘉納治五郎も、このカイロ総会に参加していたのですが、その重責たるや想像を絶するものだったのでしょう。
日本への帰路、船上で亡くなってしまうのです。
日本近代スポーツ黎明期の偉人が、こんな風に亡くなるなんてあまりにも不憫なことです。
が、後の結果を考えればそれを見なかったことは不幸中の幸いだったかもしれません。
そうです。
ご存じの通り1940年東京オリンピックも万博も、夢幻の如く消えてしまうのでした。
すべては夢幻と化した
五輪と万博の開催中止は、戦争の悪化が理由とされています。
しかしこうして振り返ってみると、夏季五輪・冬季五輪・万博という一大事業をセットで同年に開催するというのは、やはりムリがあったのは?と感じてしまいます。
正式決定されたのは1938年(昭和13年)7月15日。
戦局の安定まで万博が延期され、五輪については返上が決まりました。
そして日本は1941年(昭和16年)、太平洋戦争へ突入します。
数年前まで「五輪だ、万博だ」と高揚感に溢れていた国内は、終わりなき戦いにその身を投じ、本土の日常も、娯楽とは隔離された社会へ変貌を遂げていきます。
さらに1944年(昭和19年)にアメリカ軍の本土空襲が始まると、五輪や万博のために作りがけだった建造物は軒並み焼け落ちるのでした。
五輪を目指しながらも、最盛期を戦争で逃した選手。
選手生命だけでなく命そのものを失った選手もおりました。
1932年(昭和7年)ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した西竹一は、硫黄島で戦死を遂げております。1936年(昭和11年)ベルリン五輪で、水泳の前畑秀子が獲得した金メダルは、空襲で焼けて失われました。
日本が再び五輪と万博の夢を追うのは、1945年(昭和20年)に敗戦を迎えてから。
長く険しい道を乗り越え、そして、その夢が現実となるのは昭和39年(1964年)になってからでした。
あわせて読みたい関連記事
オリンピック負の歴史~スポーツと政治・経済・戦争は切り離せない宿命なのか?
続きを見る
92年前に日本人初の五輪馬術メダリストとなった西竹一(バロン西)硫黄島に散った悲劇
続きを見る
なぜ大政奉還が実施されても戊辰戦争が始まったのか~激突する西郷と慶喜の思惑
続きを見る
欧州視察中に幕府が倒れてしまった!将軍の弟・徳川昭武が辿った波乱万丈の生涯
続きを見る
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦~大会本番での成績は?
続きを見る
日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~初の「箱根駅伝」も開催した92年の生涯
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
※追記
1940年に開催を予定し、そして返上することになった「幻の東京五輪」。
嘉納治五郎氏を中心に行われ、その際、日本をアピールするため一冊の「写真アルバム」が制作されました。
それが現代に復刻――極東書店さんより発売されています。
『東洋のスポーツの中心地 東京-1940年幻の東京オリンピック招致アルバム―』
日本が世界の一流国に入るため。
当時の人々は、いかなる努力を注ぎ込み、いかなる技術力を構築したか。
その様子がアルバムで見れるなんて、まさに歴史のダイナミズムを実感できる場面ではないでしょうか。
詳細は、こちらの極東書店公式サイトへ。
ご紹介頂きました。記事掲載ありがとうございます。 https://t.co/0JdH1aN4nJ
— 極東書店「1940年幻の東京オリンピック招致アルバム」 (@kyokuto_tokyo) August 7, 2018
【参考文献】
夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』(→amazon)