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【新渡戸稲造】
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最高の学び舎で内村鑑三らと共に
屋外での授業も多いこの学校で、新渡戸は羽を伸ばすことが出来ました。
新渡戸は内村鑑三、宮部金吾とともに、学業でも競い合いました。
そこには楽しく、充実した日々がありました。
明治13年(1880年)、母を失うという辛い体験もありましたが、新渡戸にとってこの学び舎は最高の場所だったのです。
読書に熱中するあまり目が悪くなり、トレードマークともいえる眼鏡をかけるようになったのも、この在学中でした。
そんな新渡戸が大きく影響を受けた書物が、トーマス・カーライルの『サーター・リサータス』です。
英語、キリスト教、西洋由来の知識、西洋のマナー。
幼い頃から西洋に憧れていた新渡戸は、この札幌農学校時代に、一気にその世界が広がりました。
新渡戸は農学士として卒業。
明治14年(1881年)開拓使御用掛となり、蝗害(こうがい・バッタの大量発生による作物の被害)の対策に従事しました。
しかし、新渡戸の向学心はこのままでは収まりません。彼は、東京大学入学を目指し始めたのでした。
東洋と西洋の架け橋になりたい
明治16年(1883年)。
新渡戸は東京大学に入学を果たします。
外山正一教授から入学動機を聞かれた新渡戸は、こう答えました。
「私は、太平洋の橋になりたいのです」
英文学を学び、東洋の長所と西洋の長所を発信し、架け橋になりたい――そんな思いでした。
しかし、東大ではすぐに失望することとなります。
出来たばかりの当時、新渡戸の向学心にふさわしいほどの教員がいなかったのです。
そのため、ほどなくして退学。
明治17年(1884年)になって渡米を果たし、ジョンズ=ホプキンス大学へ入学、3年間学ぶことになります。
学費の高さに苦しむ新渡戸は、慎ましい暮らしを余儀なくされますが、実り多い留学でした。
学友には、第28代アメリカ合衆国大統領となるウッドロウ・ウィルソンがいたというのですから、驚きですね。
クェーカー教でメアリーと出会い
明治19年(1886年)。
新渡戸は学問だけではなく、大切な出会いを果たします。
キリスト教徒として、どの教えが自分にあっているのか、新渡戸は悩み続けておりました。
入信以来の悩みでもあります。
そんな新渡戸が『自分に合う』と見いだしたのが、クェーカー教のボルティモア友会でした。
人類平等を目指すクェーカー教ならば、自分が目指した東洋と西洋の価値観融合を達成できる――。
会員となった新渡戸は、メアリー=エルキントンという女性と出会います。
クェーカー教徒の家で生まれ育った彼女は、新渡戸の講演を聞いて日本に興味を持ち、是非話が聞きたいと彼のもとを訪れて来たのです。
運命の出会いでした。
当時のアメリカは、ヨーロッパと比較すればまだ新興国。
そこで新渡戸は、この年、渡欧を目指したのです。ドイツに留学し、ボン大学で学び始めました。
が、明治22年(1888年)、長兄・七郎が死去。
次兄・道郎は既に無くなっており、三男の稲造が新渡戸家に復帰して家を継ぐほかなくなります。
新渡戸はドイツに渡ってからも、メアリーと文通を続けていました。
この手紙のやりとりで、2人は結婚の強い意志を確認します。
当時はまだまだ珍しい国際結婚。
新渡戸は慎重に考え、結論に至ります。実際、メアリーの父は反対したものの、クェーカー教徒仲間の説得もあり、ついに折れました。
出会いから5年後の明治24年(1891年)元旦。
二人は結婚を果たします。
夫は30歳、妻は33歳という夫婦でした。
教育者としてスタート
この歳、新渡戸は日本に新妻メアリーとともに帰国、母校である札幌農学校の教授となります。
新渡戸は主任教授、予科主任と出世。
農業から語学まで、様々な教科を担当しています。
学外でも、私立中学である北鳴学校の校長も兼任しました。
さらには、昼間に勉強できない貧困家庭の子弟を教育する、夜間学校の「遠友夜学校」も設立。
ここまでなんでもこなしていたのは、頼まれたらば断ることができないその性格ゆえでした。
そんな新渡戸夫妻にも、悲しい出来事に見舞われます。
明治25年(1892年)に授かった一子・トーマス(遠益)が、わずか8日で夭折してしまったのでした。
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