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【新渡戸稲造】
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日本には『武士道』がある
このころ、日本は日清戦争で勝利を収め、国際社会の中で存在感を強めておりました。
日本中が勝利に沸き立つ中、新渡戸夫妻は沈黙しておりました。
クェーカー教徒は全ての戦争に反対する立場です。複雑な胸中でした。
明治31年(1988年)。
新渡戸は妻メアリーとともにカリフォルニアで療養しておりました。
このとき、彼は英語で『武士道』を書き上げています。
執筆の動機は、ドイツ留学中にありました。
ベルギー人のラブレー教授に、
「宗教教育もないのに、日本人はどうやって善悪を区別するのかね?」
と問われたことがあったのです。
新渡戸は、日本には武士の美質であった「武士道」があると述べました。
この新渡戸の著書による武士道が現在まで広まっておりますが、留意すべき点もあります。
あくまで太平の世である徳川時代の規範であり、戦国以前の武士の規範とはまるで異なるということ。
源平時代にせよ、源平時代にせよ、武士ははるかに荒々しい態度で戦っておりました。
もうひとつ。
新渡戸が生きていた頃から、彼はこの武士道は消滅しつつあると危機感を抱いておりました。
日清戦争・日露戦争の勝利の後あたりから、そのことを感じていたのです。
日本には武士道があるからそれでよいのだ――新渡戸の主張はそんな単純なものではないことをご留意いただければと思います。
ともかくこの『武士道』は、世界的ベストセラーになりました。
背景には、極東の国に過ぎない日本が、日露戦争でロシアを破ったという歴史的事件がありました。
その秘密を見いだすために、『武士道』が世界中に読まれたわけです。
ただし、これを日本人の美徳や精神性に結びつけることは、危ういことでもありました。
勝利といえども、中身は辛勝。
期待したほどの戦果も得られていません。
そもそも背景には、ロシア帝国の衰退と弱体化がありました。
当初は喜んでいたアジア諸国も、帝国主義に立ち向かうではなく、その仲間入りを果たすという日本に失望することになるのです。
そしてこの後の歴史の流れは、新渡戸自身を苦しめることにも繋がります。
東洋と西洋の架け橋になりたかった新渡戸にとって、晩年に訪れる架け橋が燃え尽き、戦争に向かっていった歴史は、苦いものに他なりませんでした。
日本人の精神を教育したい
明治34年(1901年)、農政学に詳しい新渡戸にとって、うってつけとも思えるオファーがありました。
台湾総督府技師、同殖産課長として働くということです。
新渡戸は糖業発展に尽力することになりましたが、本人としては納得できない部分もありました。
が、同郷の台湾総督府民政長官・後藤新平の誘いを断ることはできません。
植民地支配に加担したという点は、彼の経歴における汚点とみなされています。
新渡戸自身がそれに気づかなかったはずがなく、以前からあったうつ病の傾向がより強まりました。
時は日露戦争のあと。日本は上昇してゆくと思われた頃です。
しかし、新渡戸は危機感を覚えていました。
驕り高ぶった日本人の精神性は、危険である、と。
だからこそ、植民地支配に協力してしまった贖罪の意味もこめて、教育に邁進し、日本人の精神性を鍛えるべきであると考えたのです。
日露戦争では、与謝野晶子が『君死にたまふことなかれ』を発表しております。
知識人の中にも、この勝利は薄氷を踏む辛勝であり、このままでよいのか?と疑念の呈する声もありました。
しかし、そうした声は日露戦争後に強まった言論統制の流れにより、封じられてゆくことになります。
新渡戸の懸念は正しかったのです。
各大学の教授や校長を務める
台湾から戻った新渡戸は、教育に専念しました。
明治36年(1903年)には京都帝国大学の教授に就任。
明治39年(1906年)から大正2年(1913年)までは、第一高等学校校長として生徒の人望を集めました。
この期間においても、明治42年(1909年)に東京帝国大学教授を兼任し、大正7年(1918年)には東京女子大学の初代学長にも就任。
文字通り八面六臂の活躍で精力的に働きます。
新渡戸は1984年(昭和59年)から平成19年(2007年)まで使用された五千円札の図案に選ばれました。
このときの紙幣には、女性教育に関する人物が選ばれることとなり、東京女子大学の初代学長であった彼に白羽の矢が立ったのです。
女性を選べばよいのではないか?
とも思われるかもしれませんが、女性の候補たちには「肖像画がない」等の障害があり、条件を満たすことができませんでした。
そこで、女子教育推進者として、新渡戸が選ばれたわけです。
「西洋かぶれ」との批判も浴びた
新渡戸は『武士道』が著作であることから、日本人の精神性を称揚していたと誤解されがちです。
が、それは違います。
彼は生徒に対してリンカーンやクロムウェル、フランス革命といった西洋の伝記や歴史を用いながら、人間の精神性を説きました。
こうした新渡戸の方針は、一部の生徒から「西洋かぶれ」との批判を浴びることにもなります。
「バタ臭い」という悪口すらあったのだとか。
新渡戸の理想である【東洋と西洋の架け橋】という思想を、受け入れられない人は多かったのです。
皮肉にも、こうした見方は明治黎明期よりも、日露戦争勝利後に強まって来ています。
あの西洋の大国ロシアすら下した日本は、もはや西洋から学ぶことなどない。
そう思い始めた日本。
極東の小国が、西洋を脅かしつつある。敵になるかもしれない。
そう考え始めた、西欧諸国。
明治の開国後、西洋から批判の声が日本につきまといました。
キリスト教弾圧事件である浦上四番崩れ。
大逆事件。
関東大震災後の外国籍の人々らに対する虐殺事件。
この事件は現在「なかった」という歴史修正的な議論が沸き起こりますが、当時の報道を見ても海外から激しい批判に晒されていたことは明白です。
◆Kantō Massacre英語版Wikipedia(→note)
そうした批判だけではなく、アジア人を警戒する「黄禍論」が渦巻くようになっていったのです。
そんな世相の中で、新渡戸のような東西の架け橋は辛い運命に晒されることとなります。
東洋と西洋の間には、架け橋どころか戦火に向けて火がくすぶる世相へと転換してゆくのでした。
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