こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【古代史22の秘密】
をクリックお願いします。
秘密⑧ 皇族6人連続暗殺事件の闇と真相
短期間に天皇を含む皇族が6人も次々に暗殺された事件がありました。
5世紀の後半に実在した雄略天皇の即位を巡るもので、これほどの事件は日本史上ほかにありません。
雄略天皇は、同じ『日本書紀』の中で「大悪の天皇」とも「有徳の天皇」とまったく逆の評価をされています。
あまりに壮絶な殺戮を前に、歴史の真実が封印され、両極端な記述のみが残ったと考えられる。
「日本書紀が敗者の歴史を隠している」と声高に主張する本は多いですが、なぜかこの時代のことを避けて通りがちです。
なぜなのか?
謎は単純、人間関係が複雑すぎるだからです!(笑)
秘密⑨ 越からやってきた継体の大和入り 阻止したのは誰?
継体(系譜上は第26代)は謎に包まれている天皇と言われています。
前代の武烈天皇が後継者を残さないまま死亡。
そこで越から担ぎ出されたのが継体であり、その時点で既に57歳でしたので、当時としては圧倒的な高齢ですね。
出身地についても謎があります。
越前説、近江説とあり、いずれにしてもそれまでの通例を破って、ヤマト近辺ではない地方出身者から選ばれた天皇でした。
もちろん、長い皇室の歴史の中で後にも先にも例はありません。
継体は「応神天皇の5世孫である」という大義名分を掲げ、越から大和入りして天皇(大王)となりました。
しかし、大和に入ることができたのは即位して20年を経過してからのこと。
そのため大和入りを邪魔した抵抗勢力がいたという学説があります。
果たして継体の前に立ちふさがったのは誰だったのか。
継体はいかにして大和入りを成功させたのか。
数多くの継体が抱える謎は、日本古代史、つまり日本のはじまりの秘密の根幹といえます。
秘密⑩ 墓室の変更から死生観のうねりを読み取る
越からやってきた継体は、今城塚古墳に埋葬されたといわれています。
最近の考古学の成果によって、今城塚古墳の全貌が明らかとなってきました。
それまでの大王墓は、まるい後円部の頂上から穴を掘る「竪穴」だったのに対して、継体の墓はすそから横に入り口のある「横穴」を採用しました。
一見たんなる形式の変化にしか思えないかもしれませんが、この変化は当時の死生観が大きく変わったことをあらわしています。
いったい、古代人の死生観はどのように変化したのでしょうか。
お好きな項目に飛べる目次
第三部 東アジアの中の古代日本
秘密⑪ 中国「唐」のことをなぜ「から」と呼ぶのか
なぜ日本では「唐」のことを「とう」だけではなく「から」と呼ぶのか?
唐とは、遣唐使で有名な中国の大帝国です。
唐風、唐辛子、唐人……というように「唐」という単語は帝国のことだけを意味せず、その後の「中国」の王朝ことを、さらには広く「外国」を指す言葉とすらなりました。
遣唐使を送る奈良・平安時代の日本にとって、海外とはすなわち「唐」のことを意味していたからです。
しかし、どういうわけか「唐」を「から」と呼ばせています。
その理由は、飛鳥時代以前の「外国」を意味した言葉が「から」だったからです。
「から」とは漢字で書くと「加羅」です。
朝鮮半島は三国時代と呼ばれていますが、実は半島南部をおさえた「加羅」は非常に重要で、力のあった国でした。
特に日本にとっては弥生時代以来、大陸文化は基本的に加羅を通じて到来してきたものです。
ヨンさまのドラマで有名になった好太王(広開土王)の高句麗は、朝鮮半島を南下しますが、海を渡ってきた日本軍と戦う。
あまり知られていませんが、このとき「なぜ日本は海を渡ったのか?」というと、この加羅が大きく影響力していたのです。
近年では、北の諸国から圧迫をうけた加羅がヤマトに援軍をもとめた「傭兵」説が注目されています。
秘密⑫ 糟糠の妻を裏切り、新しい愛人と浮気した日本
5世紀までの日本にとって、加羅こそが海外の窓口であり、外国の代表でした。
加羅にとっても日本はなくてはならない永遠のパートナー。
しかし6世紀に入り、越(福井)出身の継体天皇が即位すると、状況は一変します。
このころ半島では、南下する百済と加羅が衝突し、双方共に日本へ味方になるよう要請してきたのです。
そこで継体天皇は、加羅から、より中国化が進んでいた百済へ近づくために、外交方針を大転換。
驚いたのが加羅であり、さらに驚愕したのが加羅との窓口利権を握っていた北九州の雄・筑紫君磐井でした。
そして古代最大の内戦【磐井の乱】が勃発するのです。
考古学や歴史学の最新成果から判明した、この「1年半戦争」の両陣営の戦略と動きは要チェックです。
第四部:飛鳥時代
秘密⑬ 聖徳太子はいなかったって本当?
最近の教科書を見ると「聖徳太子」とは書いていません。
「厩戸王(聖徳太子)」となっています。
ある歴史学者によって「聖徳太子はいなかった」という大胆な説が提示されたからです。
しかし、その説をよく見て見ると、それほど大胆ではなく「聖徳太子のような聖人ではなく単なる皇族」という聖徳太子の「人間宣言」をしたものでした。
「いなかった」が一人歩きした感のあるこの説を検証してみますと……。
冠位十二階、十七条憲法、法隆寺。聖徳太子の業績をそれぞれ見ていくと、冠位十二階=蘇我馬子との共作、十七条憲法=当時使われていない言葉も混じっていてちょっと変、法隆寺=今は世界遺産だけど当時はこの程度の寺はざらにありました。
というわけで、聖徳太子はいなかった説に軍配をあげそうになりますが、ちょっと待った!
秘密⑭に続きます。
秘密⑭ 推古天皇の「推古」の意味を知っていますか?
聖徳太子の時代、日本史上初めての女性天皇となった推古天皇。
彼女は自分が「推古天皇」と呼ばれるなんて思ってもいなかった。
神武天皇、雄略天皇、継体天皇、天智天皇……という古代の天皇の名前は、ずいぶん後になってから付けられた名前です。
このことは古代史を学ぶ人には常識ですが、どうしても通り名を使っていまいがちです。きっと通じやすいからですね。
なにしろ、カムヤマトイハレビコ(神武)やらオホハツセワカタケル(雄略)なんて言われると誰が誰だか分からない。
※この常識に果敢に挑戦し、あくまで原文通りの名前で古事記を現代語訳した三浦佑之氏の『口語訳古事記』(文春文庫)がベストセラーになったのは記憶に新しいところです。
推古天皇には、推古のほかに2つで合計3つの名前があります。
その中で彼女が生きていたときに知っていた自分の名前は一つだけ「額田部」さんです。
そこで、秘密⑩に戻りますと、推古天皇が「推古」と生存時に呼ばれていなくても「推古天皇はいなかった」とは誰も言いません。
聖徳太子が当時、そう呼ばれていなかったからといって「聖徳太子(の業績を含めて)はいなかった」と言い切るのは、ちょっとどうなのでしょう。
※続きは【次のページへ】をclick!