昨日の頼朝もそうですが、有名人や成功を収めた人物だからといって、一生幸せだったとは限りません。
若い頃の苦労と引き換えに幸せな後半生を送った人もいれば、絶頂を極めたところで不慮の事故や病気で亡くなってしまう人もいますよね。
この手の話題を挙げるとキリがありませんが、今回はその中でも泣けるエピソードを持った、とある作曲家のお話です。
1937年(昭和12年)12月28日、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが亡くなりました。
「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「水の戯れ」などのピアノ曲、バレエ曲「ボレロ」などで有名な人です。
「ボレロ」はアイスダンス(フィギュアスケートの一分野)でかつて審判全員が満点を出したという伝説でも知られており、その後も多くの選手が使っているので、その辺でも有名ですね。
他にも「展覧会の絵」(作曲はムソルグスキーというロシアの人)などのオーケストラ編曲を手がけていたり、結構いろいろやっていた人です。
多分名前がわからなくても曲を聴くとわかる方が多いと思いますので、有名どころの動画を貼っておきましょう。
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両親に才能を見出され、パリ音楽院へ進学
モーリス・ラヴェルはフランスとスペインの国境付近にあるバスク地方で生まれました。
父親がスイス人、母親はバスク人だったので完全なフランス人というとちょっと語弊があるのですが、活躍したのがフランスだったので便宜上フランス人扱いになっています。
日本人からすると、ちょっとイメージしづらい環境ですよね。
父親が音楽好きだったので、ラヴェルも小さい頃からピアノや作曲を習っていました。
そして素養があると見た両親は、パリ音楽院(パリ国立高等音楽・舞踊学校)に進学させます。
ここはフランスだけでなく各国から音楽やバレエを学びに来る人がたくさんおり、サン=サーンス(動物の謝肉祭の人)やビゼー(カルメンの人)などなど、有名な音楽家が数多く卒業していました。
ラヴェルが入学した頃にはフォーレ(ペレアスとメリザンドの人)が教鞭を取っており、直接学ぶことができたようです。
また、同世代の作曲家や他分野の芸術家とも親しみ、大きく影響を受けました。
留学試験に5度も落選って???
23歳で公式デビューを果たし、ローマ賞という当時のフランスの奨学金付き留学制度に応募します。
が、五回挑戦しても全て落選してしまい、ラヴェルはがっくりきてしまいました。
既に前述の「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「水の戯れ」を発表した後であり、専門家からも一般人からも高い評価を受けていましたから、相当なショックだったことでしょう。
となると当然、お師匠様のフォーレやその他著名人からも「審査方法がちょっとおかしくない?」とツッコまれるわけで。
案の定詳しく調べてみると、ラヴェルが応募した最後の回について、入賞者が全員審査員の弟子だったことが発覚しました。芸術の世界で不正とかないわー、マジないわー。
その後、この件に一枚噛んでいたと思しき当時の学院長がクビになり、フォーレが新しくその座に就いたことで、次の回からは公正な審査が約束されました。
敗者復活戦とはいきませんでしたが、ラヴェルの実力が当時広く認められていたことがわかりますね。
WWⅠ勃発 母国フランスのため志願兵に
そんなわけで世間的には成功を収めていたのですが、彼の後半生は少しずつ悲しい方向に向かっていきます。
まず、元々あまり丈夫な質ではなかったところに第一次世界大戦が起こります。
39歳のときのこと。母国フランスの力になりたいと考えた彼は自ら志願兵になろうとします。
しかし「あんたは病気がちだし、そんな歳の人を最前線に送れないよ(´・ω・`)」ということで断られてしまいました。
代わりに物資輸送担当として採用されましたが、これも矢玉ならぬ砲弾の間を縫ってトラックを運転するという、危ないどころの話ではない任務。
もしこのとき彼の身に何か起きていたら、その後の名曲やエピソードが生まれることはなかったのかと思うと実に肝が冷える話です。
さらに戦中に母親の訃報が届き、ラヴェルの作曲意欲は大幅に低下してしまいました。
戦争が終わってもショックから立ち直ることができず、知人にあてた手紙の中で「日々絶望が深まっていく」と書いています。
ラヴェルと家族のエピソードは特に伝わっていませんが、幼少期は決して裕福な暮らしではなかったため、絆も深かったのでしょうね。(´;ω;`)
記憶障害や言語障害に悩まされるようになり
音楽の流行が移り変わり、彼の作風よりもジャズなどが好まれるようになったことも一因かもしれません。
アメリカでの演奏旅行は成功を収め、高層ビル街や生の黒人霊歌・ジャズに触れて良い影響を受けたのか、その後に「ボレロ」などを作曲してはいますが、晩年に近付くと健康上の問題がラヴェルを苦しめます。
50歳を超えた頃から軽い記憶障害や言語障害に悩むようになり、さらに交通事故に遭ってしまったことでそれらが悪化の一途をたどることになってしまったのです。
文字を書こうとすればつづりを間違える、単語を思い出せなくて辞書を引く、筆記体が書けなくなるほどでした。
50語程度の手紙を書くのに、辞書を使って一週間もかかるほどだったといいますから、本人としてはもどかしくて悔しくて仕方なかったことでしょう。
この時点で聞いているこちらの涙腺がおかしくなりそうですが、彼の受難はまだ続きます。
うまくいかなくなったのは執筆だけではなく、日常動作もそうでした。
動作が緩慢になり、昔から得意だった水泳が全くできなくなったとか、ナイフを受け取ろうとして刃のほうを握ろうとしたとか、本人にも周囲にも辛い状況が続きます。
当たり前ですが、この状況が一番哀しく悔しかったのはラヴェル本人です。そのため癇癪を起こすことも珍しくはなかったとか。
現代だったら事故の相手に慰謝料と損害賠償をいくら請求しても足りませんね。全てが事故のせいとは限らないようですが。
自分の曲を聞き「この美しい曲は誰が書いた?」
亡くなる数年前には父の母国・スイスで療養生活に入ったものの、情緒の不安定さに拍車がかかるばかりで健康は取り戻せず、人付き合いも減ってしまいました。
頭はまだしっかりしていたので、いくつか曲を書こうともしていたようです。
しかし紙面に書き留めることができず、それらはラヴェルの頭の中から出てくることはありませんでした。
友人に対し「私の頭の中にはたくさんの音楽が流れているのに、それを表すためにの一文字も書くことができない。もっとみんなに聞かせたいのに!」と泣き崩れたこともあるそうです。
時期は不明ですが、記憶障害が進行した頃のエピソードをもう一つ。
ラヴェル初期の名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、もちろんその後演奏される機会もたくさんありました。
ある日、とある場所でこの曲が演奏されているのを聞いたラヴェルは、こう言ったそうです。
「美しい曲だ。いったい誰が書いたんだろう」
自分が作った曲でありながらその記憶が抜け落ち、それでも美しいことだけはハッキリ認識していたんですね。
彼の感受性や音楽への関心が最期まで失われていなかったことがよく伝わってきます。これを泣ける以外のどんな言葉で表せばいいのでしょう。
誰ですか……「アルティメット自画自賛w」とか言ってるのは。
脳外科の手術で医療ミス
こうした状況を見た弟・エドゥアールや友人達は、彼の苦しみを軽減すべく、あちこちの医師にラヴェルを診せて回ります。
しかし、1937年12月17日に脳外科の手術を受けさせたところ、とんでもない医療ミスが起こります。
左脳の症状だったのに右脳を開けるわ、萎縮した部分を膨らますために水を入れるわ、殺意があったんじゃのか?と言いたくなるようなことをやられてしまったのです。
人体の神秘というべきか、一時、ラヴェルの容態は回復します。
しかしすぐに昏睡状態に陥り、そのまま息を引き取ってしまいました。
彼の生涯を見ていると、才能があるのに報われないとは何て悲劇なのだろうと思ってしまいます。
才能すらないよりはマシなのかもしれませんが、特に母親を亡くしてからのエピソードは哀しいものばかりですから……。
もし本当に最後の審判で善良な人が復活し永遠の命を得ることができるのなら、ラヴェルこそそうなってほしいものです。そうしたら、彼がみんなに聞かせたかった曲が全て世に出てくることでしょう。
演奏家達が揃うかどうかはまた別の話ですけども(台無し)。
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長月 七紀・記
【参考】
モーリス・ラヴェル/Wikipedia