飛鳥・奈良・平安時代

遣唐使は何が目的で始まり なぜ廃止されたのか【全20回リスト付き】

古代の外交史で最も重要かつ注目度の高い【遣唐使】。

・何を目的として

・どんな時代に実施され

・なぜ廃止されたのか

学校の授業でも、そんなところが注目されますが、命を賭して出た旅だけに、途中で失敗したもの、遭難したケースも多々あり、非常に興味深い出来事もいくつか起きております。

今回は第1回から第20回までの全てをスッキリまとめてみましたので、ざっと眺めて楽しむだけでもどうぞ。

 

飛鳥に始まり平安に廃止される

遣唐使は飛鳥~平安時代の日本から、唐(618~907年に存在していた中国の王朝)へ派遣されていた使節団のことです。

第一回は舒明天皇二年(630年)で飛鳥時代。最後は寛平六年(894年)の平安時代でした。

遣唐使が何回派遣されたのかについては、出港せずに終わった回や、唐からの使者を送った場合を含めるか否かなどにより、若干のズレがあります。

そのため最大で20回、最小で12回と考えられています。任命自体は20回あったので、こちらで捉えておいた方がわかりやすいですね。

ざっと表にマトメておきましょう。
※受験生の方も覚える必要はないと思いますが、イメージしやすくなるでしょう

時代 出発年 帰国年 主な人物・関連事項

1 630年 632年 犬上御田鍬(大使)・僧旻帰国
2 653年 654年 粟田真人・2隻とも難破で生存者5人※後述
3 654年 655年 高向玄理(押使)は唐で没する
4 659年 661年 大使・坂合部石布は漂流先で殺される
5 665年 667年 白村江の戦い(663年)初の遣唐使
6 667年 668年
7 669年 不明
8 702年 704年 粟田真人、再び・唐と正式な国交回復目指す

9 717年 718年 阿倍仲麻呂・吉備真備・僧玄昉ら唐に残る
10 733年 734年 吉備真備・僧玄昉ら帰国
11 746年 停止
12 752年 754年 長安で玄宗(楊貴妃LOVEな人)に拝謁
13 759年 761年 唐は755年~の内乱「安史の乱」でズタボロ
14 761年 停止 唐で「安史の乱」継続中
15 762年 停止 唐の沈惟岳が帰国できず日本帰化で官位
16 777年 778年
17 779年 781年

18 804年 805年 空海・最澄・橘逸勢 ※空海は20年滞在予定を早々と切り上げる(結果的に大正解)※橘逸勢は帰国後に承和の変で失脚
19 838年 839年
20 894年 廃止 菅原道真の建議によって

上記のように20回も派遣されてるわけで、国としてもチカラを入れていたのがおわかりのように、遣唐使はかなりの大所帯でもありました。

時期によって多少のズレはあるものの、以下のようなメンバーがおり、多いときには651人という大規模な一団だったのです。

・主役である大使・副使

・記録係などの役人

・医師や船員などの乗組員

・大陸へ学びに行く学生や僧侶

なかなかイメージするのが難しい数字ですが「小学校や中学校一つ分の外交団」と考えると、何となく規模感が伝わりますかね。

 

渡来人が務めていた通訳も担うようになった

遣唐使一行の中で、歴史の変遷が伺えるのは「訳語」という役職です。

読み方は「やくご」ではなく「おさ」です。なんだか妙な感じですが、現代でいえば通訳のオシゴトですね。

もともと日本には、古墳時代あたりから渡来人がやってきて定住するようになり、彼らが通訳として外交に貢献していました。

しかし時代が下ると、大陸のほうでも言葉が変化していったため、日本に定住した渡来人系の人々は、その役割をこなしにくくなっていきます。

そのため渡来人の末裔ではなく、遣隋使・遣唐使の経験者が務めるようになりました。

「言葉は生き物」とよく言われますが、まさにそれが感じられるような出来事ですね。

 

航路は主に3つ いずれも危険に変わりなし

さて、次は航路の話です。
現代の地名で表記していきますので、お時間のある方は地図を見て確認するのもまた一興ですよ。

まずは、国内を大阪湾~瀬戸内海~博多湾まで船で進みます。ここまでは比較的簡単にイメージできますよね。

問題はこの先。
時代によってルートが異なっていました。

遣唐使のルート/photo by Brionies wikipediaより引用

遣唐使が始まってしばらくは、壱岐・対馬経由で朝鮮半島の西海岸沿いを進み、渤海湾から山東半島に向かうルートをとっていたようです。

上記の画像で言いますと、一番上の黒いラインの「北路(630-665)」ですね。

しかし、663年の白村江の戦い以降、このルートの途上にある新羅との国交が途絶えたために、ここを通ることができなくなってしまいました。

そのため、新たに九州南端から種子島~屋久島~奄美大島~徳之島~沖縄~久米島~石垣島~東シナ海を渡り、揚子江を目指すルートがとられるようになります。

同じく、上記の画像ですと、赤いライン「南島路(702-752)」になります。

このルートは唐にも知られていたようで、鑑真も同じ航路で来日したのだそうです。ただ……鑑真が来日まで六回もかかっていることを考えると、他にもこのルートで大きな病気や怪我に見舞われた人が少なからずいたのでしょうね。

さらに時代が進むと現在の福岡県~佐賀県~長崎県と進み、五島列島付近から東シナ海を横断して揚子江岸へ、という「南路(大洋路とも 773-838)」が採用されるようになりました。

 

生き残ったのは241人中たった5人の第二次遣唐使

遣唐使の役割が命がけだったことは皆さん歴史の授業でもご存知でしょう。

往路・復路を問わず難破し、諸々の苦難に遭ったことは著名です。空海と最澄が渡航したときも4隻中2隻がたどり着けませんでした。

途中の船酔いや病気も悩みの一つだったようです。

重病になった場合、唐に置き去りにされることもあったとか。ひでえ……とも思えますが、当時の状況や他の人達も命がけであることを考えると、「そうせざるを得なかった」というのが実情でしょうか。

この手の話だと、やはり有名なのは阿倍仲麻呂の話でしょう。現地に渡った後、詩人・李白ともお友達になるほどで、天才的な頭脳の持ち主だったとされています。

遣唐使の阿倍仲麻呂が天才だったなんて! あの李白ともお友達だったなんて!

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彼の場合、帰国は出来なかったにせよ、才覚もありましたし、唐に戻って生涯仕えることができたので、まだいいほうだったのかもしれません。

他にインパクトの強い話だと、第二回遣唐使船の遭難がなかなか辛いです。
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