薄葬令

飛鳥の石舞台古墳(蘇我馬子の墓説もある古墳)

飛鳥・奈良・平安

薄葬令でお墓はシンプルに~大化の改新で古墳はオワコンとなった?

歴史の授業で「この年に◯◯ができました」という話はよく聞きます。

しかし、その逆、つまり「この年に◯◯がなくなりました」という話はあまり出ませんよね。

たぶんそこまでやってると時間が足りないからなのでしょうけれど、そういや『アレっていつなくなったの?』と考えてみるとよくわからないものって結構多いんじゃないでしょうか。

本日はその一つ、古代史で一際デカイ存在感があるのに、いつの間にか消えていたものに注目。

646年(大化二年)3月22日、薄葬令(はくそうれい)が発布されました。

 


乙巳の変翌年に出た命令

薄葬令とは、平たく言えば【葬儀やお墓の作り方】を定めた法律です。

現代では亡くなった方を埋葬するまでの手続きで様々な法律が関わってきますが、この時代はもう少しシンプル。

「薄」という字がつくと、一瞬「薄情にしろってこと?(´・ω・`)」な気もしてしまいますけども、「ちょっと」とか「控えめに」という意味です。

というのも、当時は各地の有力者がこぞって大きなお墓を作り、

「こんなデカイものを作れるウチはすごいんだぞ!」

といったアピール合戦をするのが当たり前のようになっていました。古墳時代の名残ですね。

いつの時代も土木工事を実際に行うのは、アピールしたい側ではなく、その周辺の民衆。彼らにも仕事がありますから、しょっちゅうやらされていては負担が増すばかりです。

そこで、大化の改新に合わせてこの状況を打破しようということで、薄葬令が出されたのです。

【御廟野古墳】大化の改新を進めた英雄天智天皇(中大兄皇子)の墓は長辺70メートルと巨大/photo by Shigeru-a24 wikipediaより引用

もちろん、そんな慈善事業みたいな意味だけではありません。

権力のアピールができなくなるということは、それだけ朝廷の存在が際立ちます。

つまり薄葬令は民衆を救う――なんて白々しいお題目より、民衆が「国のものである」という中央集権化の一環でもあったのです。

比重としてどっちが大きかったかは……まあ、それが政治ですから。

 


同時代の天皇で薄葬された人そうでない人

薄葬令については「後からこの時代のこととして史書に書き加えられたものだ」とする意見もあるようです。

根拠は「同時代の天皇の中に、薄葬された人とされていない人がいる」からだそうです。

薄葬(夫の天武天皇との合葬)された天皇は持統天皇(=女帝)で、されていない天皇は男性なので、性別で扱いが変わっていてもおかしくはないですよね。

この時代、女性天皇は夫の天皇が亡くなった後、後継者が見つかるまでの中継ぎという立ち位置でした。それなら夫と同じ墓に葬られるのは自然なことのような気がします。

元から男性の天皇を誰かと同じお墓に入れるわけにもいきませんし。

【野口王墓】天武・持統天皇合奏墓。墳丘部は小さくとも中は瑪瑙の石室や漆塗りのお棺など結構すごい/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用

ついでに庶民の葬儀やお墓についても「好きなところにテキトーに埋葬しないように」などなどの規制がかけられました。

こうして日本では大規模な墳墓は廃れると同時に、葬儀のやり方に一定のガイドラインができたのです。

まぁ、すぐに統一化されたわけではないですけどね。

なんせ「哀悼のためと称して髪を切ったりしてはならない」「宝物を一緒に埋葬してはならない」なんてことまで書いてあったので、「そこまでお上に指図されたくないわい」と思った人もたくさんいたでしょう。

現代でいえば「故人の愛用品を棺に入れてはならない」って国に言われるようなものですから、まぁ、余計なお世話ですよね。

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