後白河法皇/wikipediaより引用

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遊び方もヤバい後白河法皇!喉から血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる

古代中世には個性豊かな治天の君が多々おります。

その中で、キャラの濃さ代表格が後白河上皇ではないでしょうか。

豪気な性格と遊戯や賭博にかける情熱から「暗主」や「狂王」という評価を受けることもしばしばあります。

「さすがに、それは言い過ぎじゃね?」なんてお思いですか?

と、これが実際ぶっ飛んでいたもので、いくつか紹介させていただきます。

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喉から血を吐くまで練習

よく知られているのが【今様(いまよう)】への熱狂でしょう。

今様とは当時の歌謡曲。

現代ならラップみたいな感覚ですかね。

後白河による音楽関係の史料『梁塵秘抄口伝集(りょうじんひしょうくでんしゅう)』によると、乙前という遊女を師匠にして、一挙一投足まで真似ながら、喉から血を吐くまで練習していたというのです。

その執念、驚きぃ~!

なお、この今様狂いに多数の近臣が巻き込まれてしまい、日々「あいつはうまい」「こいつは下手だ」とダメだしされていたようですから、なんといいますか。

いつの世も、せまじきものは宮仕えといったところですかね。

治承五年(1181年)閏2月8日、かつて表面上は仲良しだった平清盛の葬儀の日にも、法性寺殿御所で今様を踊っていたというのですから、歴史は残酷なものです。

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さて、そんな後白河ですが、さすがに今様や賭博ばかり遊んでいたわけではありません。

史書を紐解けば、一般庶民には雲の上かとおもわれる豪華な遊興を様々に催していたことが記されています。

「結局、遊びなのか」とのツッコミは置いといて、それらをちょこっと紹介してみましょう。

 

鵯合「ヒヨドリあわせ」

アイガモじゃありません、ヒヨドリです。

承安三年(1173年)5月2日に行われた鵯合は、鎌倉時代にできた『古今著聞集』にも記されるほどの大イベントでした。

左右にわかれたグループで、それぞれに持ち寄ったヒヨドリを番(つが)えて、声や羽色を競わせるという「合わせ」です。

ヒヨドリ/wikipediaより引用

左方は豪華絢爛な錦をめぐらしたテントを設けて、金銀を尽くした鳥籠を用意しました。

一方の右方はひなびた「黒木仮屋」――どんなものかよくわかりませんが、えらく質素な造りの籠でヒヨドリを出したそうです。

一見ゴージャスな左方の圧勝と思われますが、これは実は「過差(分に過ぎたこと)禁制」のパロディーなんです。

左方は豪華すぎて「法に背いて金銀を尽くし」たやり方。

右方は「禁法あるために、金銀錦は用いません」というパフォーマンスです。

法律よりも遊びが上にあるという、まさに後白河上皇だからこそできる、いやらしい(笑)遊びでした。

 

火打角合(ひうちつのあわせ)

だんだん、シーシェパードからクレームが来そうですが、治承二年(1178年)6月19日に行われた「火打角合」は、牛の角を集めてその優劣を競うというものです。

これには普段から遊んでいる近臣や公卿・殿上人といったお偉いさんばかりではなく、僧侶や北面下郎(警備員の武士)までも集められました。

貴族たちは銀で作った砂の海に、銀細工の船を浮かべ、また北面下郎は厨子(両開きの仏壇みたいなもの)に銀の手箱をおいて、それぞれに牛の角を収めたと『山槐記』に見えます。

豪華極まりない趣向ですが、これを用意するための資金や時間をとられた人々はえらい迷惑です。

全国の荘園から集められた無数の角から「下品」なものは打ち捨てられたといいます。

生きた牛から角を切り落とすという行為は、当時でも強い抵抗があったらしく、こんなことをして「罪業の因縁だ」という批判もありました。

が、後白河院にとってはそんなことはどうでもよいこと。

周りの批判なんてお構いなしです。

他にもいろいろありますが、ここらへんにしておきますので参考文献をご確認いただければと存じます。

強い反発をうけても「他人のことは知ったこっちゃない」がモットーの後白河にとっては、面白ければなんでもいいんだよ! てな感じだったのかもしれません。

得てして、そういう人が歴史に名を残すのですね。

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【参考文献】
遠藤基郎『日本史リブレット 後白河上皇 中世を招いた奇妙な「暗主」』(→amazon
棚橋光男『後白河法皇』(→amazon

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