「~の戦い」
「~の変」
「~の役」
「〜の乱」
などと分けられています。
では、この表記に厳密な「ルール」があるのかどうか?
そんな話が以前、ネット上で話題になっていて、元ネタとなったサイト では、ざっと以下のようにカテゴライズされていました。
「戦・戦い・合戦」 … 戦争を表す時に一般的に用いられるものです。
「乱」 …… 戦の中でも特に朝廷や幕府に対しての反乱に用います。
「変」 …… 戦の中でも政治的な変革を起こした・企てた時に用いられます。
「役」 …… 戦争のこと。一部、「外国・辺境地での戦争」と限定された説明がなされる事もあります。しかし、国内・畿内での戦でも用いられるので、そういった限定な意味合いは無いでしょう。
「陣」 …… 陣を張るという事から転じたものか? 局地的な戦闘、城攻め等に用いられる様です。
これにツイートやら各種メディアなども絡んで一騒動に発展。
「結局、どうなっているんだってば!」
ということで、古代の日本書紀から江戸時代まで、こうした戦いがなんと呼ばれていたのかを調べてみました。
具体的に見て参りましょう。
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天皇が勝者なのに壬申の「乱」の理由は
飛鳥時代672年【壬申の乱】は、天武天皇(当時は大海人皇子)が現政権に反乱し、勝利する内戦です。
日本書紀の原文では「壬申年之役」
として「役」を使用(複数箇所)しておりました。
あれれ?
天武天皇が勝利しているのになぜ「乱」なのか?
一体いつから乱になったのか?
不思議ですよね。
明治3年に、敗者の大友皇子が「弘文天皇」として「天皇」に認められたので、「天皇に対する皇子の反乱」ということにせざるをえなくなり、「壬申の役」が「壬申の乱」に変わったのかもしれません。
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日本初の独立戦争「将門の乱」
935年には【将門の乱】があります。
平将門が関東で「新皇」を名乗った前代未聞の独立戦争ですね。
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これが起きている同時代の記録には
「国を傾けるの謀」(『将門記』天慶二年十二月十五日に将門が太政大臣に送った弁明の手紙)
「彼の賊難」(『将門記』天皇の詔)
として「なんとかの乱」とは用語化されていません。まぁ、当たり前ですね。
後の時代になると、 平安後期の歴史物語『大鏡』では「将門が乱」で、鎌倉初期の軍記物『保元物語』では「将門・純友 東西に乱逆いたし」 なので「乱」でOKでしょう。
放火が「変」って変な感じ
866年【応天門の変】は都の門が放火された事件。
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本事件はいわば火事であり、実際のバトルがあったわけではありません。
『宇治拾遺物語』では「応天門を焼くこと」
『伴大納言絵巻』では「貞観の応天門炎上の段」
として「変」というより「炎上」の現象面での表現となっています。
この事件は、放火犯とされた貴族が冤罪の可能性もあり、単なる事件ではなく「政変」の様相が強いためにそうなったのかもしれません。
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