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【法性寺関白・藤原忠通】
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保元の乱 キッカケは藤原家の内紛だった
この辺から源平の戦いが始まるのでそっちのイメージが強い方も多いと思われますが、元をたどれば藤原家の内紛が原因だったんですね。
まず、後白河天皇によって、崇徳天皇と忠実・頼長に謀反の疑いがかけられ、忠実は命惜しさに次男を見捨てて宇治へ逃亡します。このトーチャン、酷いです。
一方、頼長も政策が厳しすぎて「悪左府」と呼ばれるほど嫌われていたのですが、この一件によって京を追い出され、現在の京都府の各地を転々としながら、力尽きて亡くなります。
しかも、遺体は一度埋葬された後で暴かれるという、不名誉な扱いを受けました。
このとき藤原忠通が後白河天皇方についたのは、上記の通り自分の娘と崇徳天皇の間に子供ができなかったからという説もありますね。
授かりものは仕方ないやろ……という気もしますが。
勝った忠通は再び摂関家の当主になろうとして、朝廷から「前任がいきなり死んじゃったし、しょうがないからその地位にしてあげるね^^」的な扱いを受けています。
もう少しで所領も取り上げられるところで、これは忠通がゴネて何とかなりました。
たぶんこの機に乗じて摂関家そのものを潰そうとしていた人が多かったんでしょうね。敵はどこにいるかわからないものです。
保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原 ゆえに対立関係を把握すればスッキリわかる
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職位を行ったり来たりから法性寺で出家
こうして政治的にも物理的にも生き残った忠通。
やがて平治の乱につながる政争に敗れ、
平治の乱で勝利を収めた清盛の政治力~源平の合戦というより政争なり
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後白河天皇から「お前クビ」(超訳)といわれて失脚しました。
しかし、平治の乱でお偉いさんが軒並み討ち取られたり配流された結果、
「あれれー、おかしいなー? 政治をやれる人がいないぞ―?」
という状態になってしまったため、一時的に返り咲きます。
その後の余生は藤原氏ゆかりの寺・法性寺で出家しました。
職位を行ったり来たりした末に、法性寺で出家したので、百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」という長ったらしい名前になったわけです。
子孫は繁栄を極め摂関職を独占
さすがにここまでくれば、「その後は穏やかに過ごしました」……と言いたいところですが、なんともう一悶着ありました。
お気に入りの女房(女官的な意味のほう)が別の男と密通していることがわかり、ショックで寝込んで亡くなってしまったのです。
藤原忠通は66歳になっていましたので、当時の感覚でいえば長寿だったはずですが……生涯現役だったのかもしれません。
政争で疲れ果ててやっと穏やかに暮らせると思ったところに、信頼していた側仕えに裏切られたことが、よほど老体に堪えたのでしょうか。
その代わり?に、彼の子孫は繁栄を極めます。
これ以降、明治維新までの摂関職は、忠通の子孫が独占しているのです。
道長の子孫でもありますが。
武家同様、公家も家を残すことが第一ですから、その意味では忠通が最高の勝ち組といえるでしょう。最期まで捕まったり処刑されたりもしていませんしね。
こういう人を「悪運が強い」というのでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤原忠通/Wikipedia