延喜三年(903年)2月25日は、菅原道真が亡くなった日です。
天才として今なお全国に名を知られる平安時代の学者であり政治家の道真公。
彼がなぜ学問の神様と呼ばれるのか、ご存知でしょうか?
今回は道真の命日にちなみ、彼が「文章博士」となって出世のキッカケを得て、そこから讒言→太宰府への左遷を経て、人物神となるまでの経緯を確認してみましょう。

菅原道真像(菊池容斎)/wikipediaより引用
菅原道真は大学教授で文筆家&天皇の先生
文章博士の読みは「ぶんしょうはくせ」ではなく「もんじょうはかせ」です。
仕事内容は、大学の教授と文筆家のみならず、天皇の先生を兼任するというスペシャルハードなものでした。
もっとも、これには日本人の気質が大きく関係していて、単に全部押し付けられたとかそういうわけではありません。
日本の学校制度は中国の歴代王朝を基本にしており、中国人と日本人で好む学問の分野が違ったため、こういう収まり方になったのです。

具体的に申しますと、中国では儒学が好まれました。
一方、日本では文学や史学に関心を持つ人が多かったので、担当する文章博士の権威も大きくなり、そこから発展して天皇の先生をやったり、貴族からの依頼で漢詩や文章を書くようになっていったのです。
現代でも紙の本や電子書籍問わず「日本人は読書好きだ」って言われることがありますから、民族性なんですかね。
まぁ、全国民に対し統計取ってみたら、諸国と変わらん……なんてことかもしれませんが。
道真は生誕地も不明なほど身分が低かったが
やがて文章博士は身分も引き上げられます。
従五位下という貴族と同等の位を与えられるようになりました。
同格には少納言や少輔など、貴族や戦国武将の官位でよく耳にするものが並んでいます。 そのくらい重要視されるようになったということです。
時は藤原氏が隆盛を極めんとしていた頃。
下級貴族たちにとって、藤原氏のコネ以外で出世するには、文章博士になるのがもっとも手っ取り早く確実な手段といっても過言ではありませんでした。
そこで下級貴族たちは、息子をこぞって大学寮(国立の官僚候補学校)に通わせるようになります。

道真も同様に大学寮へ入っています。
ただし、道真の生誕地はわかっていません。そのくらい元の身分が低かったんですね。
小さい頃から詩歌の才があったといわれていますので、少なくとも読み書きなどの教育が受けられるギリギリの家だったという可能性が高いです。
無名の青年が頭脳を武器にわずか8年で大出世!
大学寮は中国の科挙と同じように、試験にさえ受かれば身分の低い者でも入学できました。
ごくごく僅かですが、名字を持たない身分の人が入学した記録もあります。
道真もこのシステムのおかげで頭角を現し、18歳で入学して23歳の時には文章得業生(もんじょうとくごうしょう・文章博士の候補者)に選ばれています。
さらに26歳のときには、文章博士の行う「方略試(ほうりゃくし)」という試験にも合格しました。
本当はここで位階が3つ上がるのですが、それでは文章博士を超えてしまうというので1つに留められたほどです。
無名の青年が頭脳を武器に、わずか8年で大出世!
なかなかドラマチックな展開ですよね。
そして元慶元年に文章博士になった後も讃岐守となって領地をもらったり、宇多天皇と藤原氏とのゴタゴタを片付けるなど活躍しました。

宇多天皇/wikipediaより引用
宇多天皇からも厚く信頼され、その息子・醍醐天皇の代には右大臣にまで上り詰めています。
隆盛振りは凄まじく、自分の娘を宇多天皇の息子・斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせるほどでした。
しかし、これがやっかみを買う原因になってしまいます。その相手とは、もちろん……。
皇位簒奪のデッチ上げで太宰府へ左遷される
ただでさえ余所者が権力を持つことが気に入らない藤原氏です。
直接邪魔をされた上、皇室の外戚となった道真に報復しないわけがありません。
この雰囲気を感じ取った後輩で同年代の三善清行(みよしのきよゆき)が道真に「お前、ちょっとやり過ぎてるからここらで引退したほうが後々いいんじゃないの?」と忠告してくれたのですが、元々この二人は仲が悪かったため、道真は聞き入れませんでした。

三善清行(菊池容斎作)/wikipediaより引用
仲悪いのに忠告してくれた清行さん、マジ善人。
案の定、道真は「婿の親王殿下を皇位につけようとしている!」なんてデタラメをでっちあげられ、都から比べれば未開の地にも等しかった大宰府へ左遷されてしまうのでした。
大宰府で過ごしたのは亡くなるまでの二年ほどでした。
ただし、息子達も流罪になってしまったため、家を再興する見込みも絶たれてしまっています。
左遷の首謀者は藤原氏なのか。
天皇家内のいざこざによるものなのか。
詳細は不明ですが、どちらにしろ道真のミスではありません。
せっかく頑張って、一代で官位No.3まで上り詰めたのに、そんな目に遭わされたら祟りたくもなろうというもんでしょう。
では、そんな彼がどうして「学問の神様」となったのか?
落雷事件
今日では当たり前の【道真=天神様】。
実は当初祀られたときから比べると随分様変わりしています。
本来は「皇居で清涼殿落雷事件があったり、道真の政敵が次々に亡くなったのは祟りに違いない」ということから、雷神として扱われました。

北野天神縁起絵巻/wikipediaより引用
もともと京都の北には「火雷天神」という雷神が祀られており、ここに道真の社を建てることで神様の力を借りながら鎮めようとしたのでしょう。
俗っぽい言い方をすると「同僚みたいなもんなんだからあいつなんとかしてよ」ってとこでしょうか。
流罪になっていた道真の息子達についても「もう帰ってきていいよ」というお達しが出され、道真の怨霊はめでたく鎮まりました。
しかしそれまでの間のインパクトが強すぎて、しばらくの間は何かしら天災が起きると皆「道真の祟りじゃああああ;」と言っていたそうです。
とんだ濡れ衣ですね。
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清涼殿落雷事件が道真の祟りとされた理由|事件3か月後に醍醐天皇が崩御
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気付いたら同一視されるようになっていた
百年ほどしてそれが下火になります。
と、今度は【火雷天神】のほうが忘れられかけました。
そりゃあ、こんな印象の強い話を持っている人(神)と同じところにいたら影が薄くなるのも仕方ないこと。いつしか【火雷天神と道真】は、同一の存在と思われるように……。
どこの国でもよくあることなんですが、よくよく考えたら
「私とお前は同一人物だったのだよ!」
「ナ、ナンダッテー!!」
ってな話なんですよね。昔の人の感覚ってすごいです。
そして道真については頭脳が極めて優秀だったことから「お参りすれば俺も頭良くなるかも!」というように、
【道真=天神様→学問の神様】
と見なす人々が出現。
時代が下るにつれて
「そういえば書道も得意だったよね」
「歌もスゲーじゃん」
「学問をする子供も守ってくださらないかしら」
なんて風に、書道や歌道の神、そして子供の守り神だと見なされていきます。
今更ですが天神様大忙しです。
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【参考】
国史大辞典
太宰府天満宮(→link)
菅原道真/wikipedia
天神信仰/wikipedia
通りゃんせ/wikipedia






