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【菅原道真】
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皇位簒奪のデッチ上げで太宰府へ左遷される
ただでさえ余所者が権力を持つことが気に入らない藤原氏です。
直接邪魔をされた上、皇室の外戚となった道真に報復しないわけがありません。
この雰囲気を感じ取った後輩で同年代の三善清行(みよしのきよゆき)が道真に「お前、ちょっとやり過ぎてるからここらで引退したほうが後々いいんじゃないの?」と忠告してくれたのですが、元々この二人は仲が悪かったため、道真は聞き入れませんでした。
仲悪いのに忠告してくれた清行さん、マジ善人。
案の定、道真は「婿の親王殿下を皇位につけようとしている!」なんてデタラメをでっちあげられ、都から比べれば未開の地にも等しかった大宰府へ左遷されてしまうのでした。
大宰府で過ごしたのは亡くなるまでの二年ほどでした。
ただし、息子達も流罪になってしまったため、家を再興する見込みも絶たれてしまっています。
左遷の首謀者は藤原氏なのか。
天皇家内のいざこざによるものなのか。
詳細は不明ですが、どちらにしろ道真のミスではありません。
せっかく頑張って、一代で官位No.3まで上り詰めたのに、そんな目に遭わされたら祟りたくもなろうというもんでしょう。
では、そんな彼がどうして「学問の神様」となったのか?
落雷事件
今日では当たり前の【道真=天神様】。
実は当初祀られたときから比べると随分様変わりしています。
本来は「皇居で清涼殿落雷事件があったり、道真の政敵が次々に亡くなったのは祟りに違いない」ということから、雷神として扱われました。
もともと京都の北には「火雷天神」という雷神が祀られており、ここに道真の社を建てることで神様の力を借りながら鎮めようとしたのでしょう。
俗っぽい言い方をすると「同僚みたいなもんなんだからあいつなんとかしてよ」ってとこでしょうか。
清涼殿落雷事件は道真の祟りだったのか?事件3か月後には醍醐天皇も崩御され
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流罪になっていた道真の息子達についても「もう帰ってきていいよ」というお達しが出され、道真の怨霊はめでたく鎮まりました。
しかしそれまでの間のインパクトが強すぎて、しばらくの間は何かしら天災が起きると皆「道真の祟りじゃああああ;」と言っていたそうです。
とんだ濡れ衣ですね。
気付いたら同一視されるようになっていた
百年ほどしてそれが下火になります。
と、今度は【火雷天神】のほうが忘れられかけました。
そりゃあ、こんな印象の強い話を持っている人(神)と同じところにいたら影が薄くなるのも仕方ないこと。いつしか【火雷天神と道真】は、同一の存在と思われるように……。
どこの国でもよくあることなんですが、よくよく考えたら
「私とお前は同一人物だったのだよ!」
「ナ、ナンダッテー!!」
ってな話なんですよね。昔の人の感覚ってすごいです。
そして道真については頭脳が極めて優秀だったことから「お参りすれば俺も頭良くなるかも!」というように、
【道真=天神様→学問の神様】
と見なす人々が出現。
時代が下るにつれて
「そういえば書道も得意だったよね」
「歌もスゲーじゃん」
「学問をする子供も守ってくださらないかしら」
なんて風に、書道や歌道の神、そして子供の守り神だと見なされていきます。
今更ですが天神様大忙しです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太宰府天満宮(→link)
菅原道真/wikipedia
天神信仰/wikipedia
通りゃんせ/wikipedia