貴族というと、なんとなくノンビリゆったり、穏やかで贅沢な暮らしを楽しんでいるようなイメージがありませんか?
ところがどっこい(古い)、大河ドラマ『光る君へ』にも登場する平安貴族たちは、意外と忙しく過ごしていました。
彼らは一体どのような一日を過ごしていたのか?
振り返ってみましょう。
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陰陽寮の太鼓で起床
夏は4時半頃、冬は6時半頃、陰陽寮の役人が太鼓を叩き、朝が来たことを知らせます。
貴族は皆この太鼓で起床し、夏は5時半、冬は8時前頃に出勤できるよう支度を始めていました。
現代人であれば身支度に朝食、人や日によってはゴミ出しや洗濯、お弁当作りなどが朝のルーティンでしょうか。
平安貴族の場合、出勤前に“おまじない”や当時の信仰に基づいてやるべきことが多々ありました。
まずは「属星」の名を七回唱えます。
「人は生まれながらにして、北斗七星のうちどれか一つの加護を得ている」と信じられていたためです。
仏壇でご先祖様にご挨拶するのと似たような感覚なんでしょうかね。
次に「具注暦」という暦を見てその日の吉凶を判断し、物忌みが必要かどうかを確認しました。
物忌みが必要な場合は欠勤となるため、その連絡も事前にしておきます。
当時はメールや電話などありませんので、こういった連絡は届け先に応じた身分の従者が届けていました。
欠勤の連絡に限りませんが、早朝や深夜に手紙を持って走らなければならない従者も大変ですね……。
出勤前に朝粥を食べることも
その後、歯磨き、手と顔を洗うなどの身支度をし、次は浄土があるとされた西に向かって仏様にお祈り。
さらに神社を遥拝します。
時と場合によっては、出勤前に朝粥を食べました。朝食というより軽食扱いで、正式な朝食はもう少し後に食べます。
ここまで終わったら、出仕する日は束帯に着替えです。
貴族の最もフォーマルな衣装ですね。
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女性の装束よりは軽かったようですが、男性の衣装もなかなかの重さ。体調によっては出仕した後気分が悪くなってしまうこともあったようです。
支度が整ったらいよいよ出仕です。
内裏への移動を含め、移動は基本的に牛車でした。
「紙=放ち紙」を貼って勤怠記録
内裏に到着すると、日給の簡(ふだ)に日付を書いた「紙=放ち紙」を貼って勤怠を記録します。
現代でいうタイムカードが近いでしょうか。
公卿(太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議などの総称)の場合は、大内裏に入って正面にあった朝堂院という場所で、「朝政」という朝一番の会議が行われます。
これが最も大きな仕事でした。
ちなみに、朝堂院の入り口の門が貞観八年(866年)【応天門の変】で知られる応天門です。
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朝廷にとってのメイン会議場で事件が起きた、というだけでヤバいですね。
現代でいえば国会正門前あたりに相当するでしょうか。
また、一定以上の官位があれば、大内裏の中に自分の控室=曹司(ぞうし)を持っていました。
朝政の後の執務はここで行ったようです。
曹司は休憩所も兼ねており、体調が悪いときは一時的に帯を緩めて休むこともあったとか。
余談ですが、曹司は貴族の屋敷の一部屋も指します。そこから「貴族の屋敷で個室をもらっている息子」のことを「御曹司(おんぞうし)」と呼ぶようになりました。
これは今でも、良家のお坊ちゃまを指す単語として使われていますね。
ちなみに摂関や大臣、大納言といった中枢オブ中枢の人々は内裏に直盧(じきろ)という個室を与えられていました。
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