そう仰る方でも、毎日のように目にしている寺院があるのですが……お気づきですか?
十円玉に描かれているあの絵。
そうです。
天喜元年(1053年)3月4日に完成した平等院鳳凰堂ですね。
最近はsuicaやpaypayなどのキャッシュレス時代とはいえ、その存在を知らない方はいないでしょう。
しかし、肝心の平等院鳳凰堂については「藤原頼通が関係しているんだよね……」ぐらいの知識で留まっている可能性もありそうです。
良い機会ですので、本日は平等院鳳凰堂の歴史を振り返ってみませんか。
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はじめ源融から次々に所有権が移り変わり
まず所有権に関して。
実は平等院の土地と建物は、さまざまな皇族や貴族の手を渡り歩いています。
はじめは、源融(みなもとのとおる・嵯峨天皇の子)が土地を手に入れて別荘を建設。
その後、以下のように受け継がれていくのです。
源融
↓
宇多天皇
↓
源重信(宇多天皇の孫)
↓
藤原道長
↓
藤原頼道(道長の息子)
宇多天皇は、いったん臣籍降下して一般人になってから、再び皇族に戻って天皇になったというレアケースの人物。
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そして、その孫・源重信が引き継ぎ、後は藤原道長から藤原頼通へ、という教科書でもお馴染みの展開ですね。
当初からお寺だったわけではなく、元は教科書で出てくる”寝殿造り”そのままの構造でした。
なので、お寺になってからも釣りをするための離れ(釣殿)などがあったそうです。
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この世はおしまいだー! 神様どうかお救いをー!
現在残っている鳳凰堂は、道長が亡くなった後に頼通が手を入れたものです。
当時の世相は「末法の世(=末法思想)」が拡散。
「お釈迦様の時代から千年も経って、もう悟りを開ける人がいない! この世はおしまい! 神様仏様どうかお慈悲を!」という考えが広がっておりました。
そのため貴族の間では、まさしく仏にすがる思いで念仏を唱えたりお寺を建てたり、自ら出家したりするケースが増えていきます。
末法思想なんてバカだな、ははっ……って、今なら思うかもしれませんが、当時は単なるオカルトと捨て切れません。
平安時代は地球的に寒冷な時期で、疫病や天災も多く、そうした災いは【為政者の責任】とも考えられたからです。
平等院をはじめ、この頃のお寺にはそうした意識が反映されています。
「浄土式庭園」と呼ばれ、極楽浄土をイメージした大きな池などを作ることにより、本物の極楽に近付こうとしました。
そもそも金銭でどうこうするなんて仏の道に反してるんじゃないの? と色々ツッコミたいところですが、結果として素晴らしい建築物を残しているのですから、後世のためにはなっているかもしれませんね。
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