道鏡、平将門、足利尊氏――と言えば日本三悪人として知られております。
とりわけ道鏡は『天皇になろうとした』とされたことから3人の中で最も悪い人物として伝わっておりますが、実際、彼のしでかしたこと自体は特段血なまぐさいものでもござーせん。
下野国の薬師寺別当に左遷された2年後の宝亀3年(772年)4月7日に亡くなったとされます(死亡日については諸説あり)。
果たして、どんな人物だったのでしょう?
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孝謙天皇と藤原仲麻呂が対立し……
河内国生まれである道鏡の生年月日は不明。
若い頃より高僧の下で禅や梵語を学び、禅師(徳の高い僧)となって宮中への出入りが許されるようになりました。
そこで孝謙上皇の病を治し絶大な信頼を寄せられるようになります。
その縁から道鏡が出世し、後の悪行が語られるワケですが、今回はその前にパトロンであった「孝謙上皇(後に称徳天皇・後述)」について少し確認しておきたいと思います。
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まず大きなポイントは、孝謙上皇が女性であったことです。
父は聖武天皇、母は光明皇后の大仏カップル(東大寺の大仏建立)。
彼女が天皇になった当時、光明皇后の甥、つまり自分の従兄弟にあたる有力貴族「藤原仲麻呂」と仲良しだったのですが、天平宝字2年(758年)、仲麻呂の推す淳仁天皇に譲位してから2人の関係は微妙になっていきました。
そして天平宝字4年(760年)に光明皇后が亡くなると、悲しみのあまり床に伏せってしまった孝謙上皇の看病をしたのが「道鏡」だったのです。
孝謙上皇は精神的な病に悩まされていたなんて話もありますが、ありがたい祈祷で病が癒えた上皇は道鏡を信頼し、彼をどんどん出世させます。
危機感を抱いたのが仲麻呂。
淳仁天皇を介して「ちょっと道鏡を寵愛しすぎでないですか?」と釘を刺そうとしますが、これに対し上皇は怒り「は?だったら私は尼になるわ。あと政治の大事なことは天皇にやらせず私が決めるから!」なんて言い出しちゃうのでした。
【法王】は天皇へのステップだった!?
孝謙天皇の動きに焦りを感じた仲麻呂はここで蜂起。
しかし、失敗して一族郎党は殺され、淳仁天皇は廃位(764年藤原仲麻呂の乱)となり、上皇が天皇に返り咲いて称徳天皇となります。
彼女は道鏡を太政大臣禅師に任命し、さらには彼のためだけに『法王』なる位まで与えてしまうのです。
完璧にフラグです。
法王とは「天皇に準ずるポジション」としての意味合いを持ち、後の世で誰も就任していないことから詳細は不明ながら、つまりはその上「天皇になる」狙いまで含んでいたとされています。
そして、このような権力を握った道鏡が行った政治が……結構地味でした(´・ω・`)
・仏教万歳な政治をした
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寺にいっぱい寄付しよう。貴族は開墾しちゃダメ! あ、寺は良いよ、寺は。
あと百姓がちょいと開墾するのもOKにしておきましょう。
というように、貴族にとっては悪政ですが残酷とかそういった類ではありません。
まぁ、元々はお坊さんですしね。
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