ますます議論盛んになっているのが男系による皇位継承ですが、振り返ってみますと女帝が二代続いたことも過去にはあります。
もちろん男系が途絶えたワケじゃないのですが……。
天平二十年(748年)4月21日は、元正天皇が崩御した日です。
日本でも数少ない女帝の一人ですが、あまり言及されることはないですね。
しかし、実はとても重要な時代に帝位についていた方です。
この辺は皇位継承順がややこしいことになっていますので、先に系図を見ておくと良いかもしれません。
女帝である元明天皇から、娘の元正天皇へ受け継がれた。
一体この時代の何が重要だったのか?振り返ってみましょう。
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天智と天武の孫
後に「元正天皇」となる日高皇女(氷高または新家とも)は、天武天皇九年(680年)に生まれました。
父は天武天皇の皇太子・草壁皇子。
母は天智天皇の娘・阿閉皇女(後に元明天皇)です。
つまり【壬申の乱】で対立した二人の天皇にとっては、どちらから見ても孫ということになりますね。
後世からすると、ここが彼女の人生にとってのキモになるところです。
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日高皇女が生まれたとき、母方のジーちゃんである天智天皇は既に崩御していましたが、父方のジーちゃん・天武天皇はまだ存命中でした。
だいぶ可愛がられていたようで、日高皇女が病にかかったとき、天武天皇は198人もの罪人に恩赦を与えたといいます。
日高皇女はそのとき2歳です。なんというダイナミック爺馬鹿(褒め言葉)。
幸い日高皇女は持ち直し、3歳のときには弟・軽皇子(かるのみこ)も生まれました。この人は後に文武天皇となります。
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ややこしくなるのは、日高皇女が9歳のときに父・草壁皇子が亡くなってからです。
本来であれば軽皇子が皇位を継ぐはずでしたが、まだ幼かったため、祖母である持統天皇が即位することになりました。
このとき、天武天皇が亡くなってから既に三年経っています。
三年も帝の位が空いていたというのは奇妙に思えますが、これは殯(もがり)という死後の儀式を行う期間が非常に長かったためです。
天武天皇の場合、686年に亡くなって688年にやっと陵(お墓)に葬られました。
つまり、その間はずっと地上に棺を置いたまま儀式をしていたわけです。殯の儀式を執り行った人が後継者である、ということを広く知らしめる意味もありました。
もちろんこのときは草壁皇子がやっていたのですが、儀式が終わってさあ即位……となったところで亡くなってしまったというわけです。
ややこしい事態はまだ続きます。
文武天皇の息子・首皇子がまだ6歳だったので……
軽皇子は成長してから即位し、文武天皇となったのですが、この方も24歳の若さで亡くなってしまいます。
幸い、息子の首皇子(おびとのみこ)が生まれていたものの、たったの6歳。
後世ではこのくらいの年齢で帝位につかされることも珍しくありませんが、当時は「いやいやさすがに無理でしょ」と考えられました。古代のほうが常識的ってどういうことなの。
しかし、融通が利くのもまた古代の皇室です。
「首皇子が大人になるまで、私が代わりを務めましょう」と、バーちゃんである阿閉皇女が元明天皇として即位しました。
しばらくはそれでうまくいっていたのですが、元明天皇は既に40代後半に入っており、当時の感覚としてはご老体です。
元明天皇自身も老いを感じていたらしく、和銅八年(715年)に譲位を決めました。
このとき首皇子はまだ14歳。
ついでにいえば、夭折した父の文武天皇が即位したのと同じ歳です。イヤな予感がしますね。
当時もそう思われたのか「もう少し中継ぎの方がいたほうがいいのでは……」と判断されました。
しかし、他に皇位を継げそうな男子はいません。
そこでお鉢が回ってきたのが、日高皇女改め元正天皇でした。
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