応和四年(964年)4月29日は、村上天皇の中宮だった藤原安子(あんし)が亡くなった日です。
中宮というと、朝廷での「女の戦い」における中心人物……という気がしますが、彼女もご多分に漏れず、なかなかのエピソードを持っています。
大河ドラマ『光る君へ』の舞台、その直前の女性なので、脚本家としては登場させることができず残念だったかもしれません。
いったい藤原安子とはどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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藤原安子の父は頭脳明晰で知られた師輔
藤原安子は、延長五年(927年)に生まれました。
父の藤原師輔(もろすけ)は頭脳明晰で知られ、さらには藤原兼家の父としても知られます。
つまり安子は兼家と姉弟であり
藤原師輔
│
藤原安子(姉)藤原兼家(弟)
道長から見ると伯母ということになりますね。
師輔は、兼家に劣らずのパワフルな権力者だったことで知られます。
例えば(生涯独身が原則の)内親王に通いつめ、臣下で初めて降嫁を許されたという人物でもありました。
安子の母親は内親王ではありませんが、師輔の出世が早かったため、13歳で成明親王(後の村上天皇)に入内。
そして安子19歳のときに村上天皇が即位し、安子も皇太子妃となります。
さらに23歳で後の冷泉天皇を生み、31歳で中宮となり……と、絵に描いたような順調な出世ぶりでした。
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そんな安子にも「嫉妬エピソード」という名の波乱が一つだけありました。
長い髪を持った美女 藤原芳子はイトコだった
歴代の天皇の例に漏れず、村上天皇も多くの妃を抱えています。
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その中に、安子のいとこである藤原芳子(宣耀殿女御)という人がいました。
彼女は顔立ちの美しさもさることながら、当時の美人の第一条件である「非常に長い髪」を持っていたといいます。
一説には「車に乗って出かけようとすると、本人が既に車内にいるにもかかわらず、まだ髪が寝殿にあった」とか。
さすがに誇張でしょうが「身の丈」どころではない長さの髪だったのでしょうね。それを支えられる頭皮がスゴイなぁ。
通常であれば后妃同士はあまり顔を合わせることはありません。
しかし、ある日、安子がたまたま芳子の顔を見てしまうと、あまりの美しさにジェラシーを爆発させ、食器のかけらを投げつけてしまうほど怒ったそうです。
個人的には「なぜそんなものが中宮ともあろう人の身近にあったのか」ということのほうが気になりますが、当時の人はそうではなかったようです。
これを聞きつけた村上天皇は、いくら寵妃とはいえさすがにご立腹。
安子の兄弟たちに謹慎を命じます。
しかし、安子が直談判して、すぐさま撤回させてしまったのだとか。
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