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【藤原安子】
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本当に鬼嫁?むしろ愛情深い美人では?
この話からすると、藤原安子はなかなかのヒステリック気質ですよね。
しかし安子は、村上天皇の后妃で最も多くの子供を産んでいます(三男四女)。
芳子との逸話がいつ頃のことなのか、そもそも事実なのか、真相は不明。
とりあえず村上天皇の寵愛が消えることはなかった……という可能性が高いですよね。
それを裏付けそうな点があと2つあります。
1つは、安子が亡くなったその年の秋に、村上天皇が詠んだこの歌です。
秋風に なびく草葉の 露よりも きえにし人を なににたとへん
亡くなってから半年程度経ってからも、露のように儚いものを見て思い出した――ということは、安子にもそういった嫋やか・なよやかな一面があったのでしょう。
もしくは、秋に関する夫婦間の思い出があったのかもしれませんね。
もう1つは、子供たちに関するエピソードです。
上記の逸話では「芳子の美貌に嫉妬して安子が暴挙に出た」とされていますが、彼女の長子である冷泉天皇が美貌だったといわれることからして、安子も一定の顔立ちだったと思われます。
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それでも芳子に嫉妬したということは、人の長所を認識できたということにもなるのではないでしょうか。
また、次子の円融天皇も長い間、安子を慕っていたといわれています。
これらを考え合わせてみると、安子は「ときに気が高ぶって乱暴になることもあるが、愛情も深い美人」といった感じの女性だったのではないか……という気がしてきません?
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甥である道長の活躍を思えば
ちなみに、安子と引き換えにこの世に生まれ出た末子の選子内親王は、五代57年にわたり賀茂斎院を務め、その周辺は清少納言が「この世でベスト3に入る女性の職場」と称するほどのサロンとなりました。
また、藤原道長の活躍を考えると「安子の一門は末永く栄えた」と言えなくもない。
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一方、芳子の産んだ子供たちは夭折したり、病弱のため東宮にふさわしくないと判断されたりして、栄えたとはいえませんでした。
また、安子が亡くなった後は、芳子への寵愛も薄れていったといいます。
「いったい幸せとは何だろうか」
藤原定子と彰子にも言えますが、安子と芳子も子孫・縁者を含めると、思わずそんなベタなことを考えたくなるような歴史の流れであります。
当人たちは、天国からどう見ているのでしょうか……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
藤原安子/wikipedia
やまとうた(→link)