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【斉明天皇】
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瀬戸内から集まった2万の兵の集合場所?
もっとも、小さな邇摩郷だけで2万人も集めたという話は無理がある。
現在の二万地区は河口から5~6キロ内陸だが、飛鳥時代の海岸線は二万地区のすぐ南にあり、菅生小学校裏山遺跡などの港湾跡の遺跡が見つかっている。
また、北には古代の山陽道が走っていたと推定。
陸路と航路が交わる交通の要衝だった「二万郷」は、兵士たちの集結地だったと考えるのが自然だろう。
もちろん、ただ交通の便がよかっただけではない。
ここがかつての「吉備王国」の足元だったことがさらに重要な理由である。
飛鳥時代以前の日本は、ヤマトの大王(天皇)を対外的には倭王としながらも、実際の地方支配は各地の「王」である豪族にまかせていた。
九州北部や出雲などにも「王」がいたように、吉備にも「王」がいた。
邇摩郷から東へ10キロほどの足守川周辺(岡山市・総社市・倉敷市)に本拠地がある。
奈良時代以後も備中の国分寺や国府が置かれるなど、政治の中心地であり続けた重要なエリアだ。
栄華を誇った吉備王国は、やがて雄略天皇に滅ぼされてしまう。
ヤマトで最初の専制君主といわれる雄略天皇(400年代後半)が葛城氏を滅ぼした際、吉備が反乱を起こし、逆に返り討ちで潰されてしまったのだ。
このことを裏付けるように、吉備ではこの時期に100メートルを超えるような大古墳の築造がピタッ!と止まる。かなり大規模な粛正だったようだ。
しかし、雄略天皇の強引な支配がたたったのか。
子孫が途絶えてしまう。
507年には、雄略天皇の血をひかない越(福井県)出身の継体天皇が即位して、彼の子孫たちが飛鳥に王朝を開いた。
斉明天皇は、継体天皇から数えて五世代目だ。
吉備の復興と渡来人移住
継体天皇系の天皇は、吉備の復興に手を貸したふしがある。
555~556年には、ヤマト王権を主導した豪族の蘇我氏がわざわざ吉備に出向いて、天皇家の直轄領・白猪屯倉(しらいのみやけ)と児島屯倉を設置。
屯倉の設置は、地方の力をそぐものと考えられがちだが、少なくとも吉備においては、一度、壊滅した地域を復活させる起爆剤になった。
それは畿内にいた渡来人の移住である。
正倉院文書からは、邇摩郷に近い賀夜郡(かやぐん)の約2割が渡来人だったことが分かっている。
さらに日本最古の製鉄炉跡が500年代の千引カナクロ谷遺跡で見つかっている。
こうした最先端の技術は渡来人が持っているもので、ヤマト王権の許可と後押しがないと地方への技術移転は不可能だった。
渡来人の技術で、鉄産業の地となった吉備は飛鳥時代に不死鳥のように蘇った。
吉備王の末裔は、ヤマトへのお礼(もちろん服従の意味もあっただろう)として娘を差し出したようだ。
そうした一人と考えられるのが斉明天皇の母・吉備津姫王(きびつひめのおおきみ)である。
彼女が吉備の出身と断じられれば話は早いが、残念なことに出自は不明。
その名前から、吉備の豪族に育てられた皇女か、あるいは吉備の出身者を父か母に持つ姫と考えたい。
娘の斉明天皇にとって吉備は第二の故郷だったのだろう。
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