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【斉明天皇】
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鬼ヶ島のモデルとなった山城築城の目的は練兵か
二万地区から北に約10キロ。
標高400メートルほどの山の上に、本記事の冒頭で挙げた鬼ノ城(きのじょう)がある。
桃太郎・鬼ヶ島のモデルともされ、史書に登場しないため謎の遺跡といわれていたが、近年、発掘が進むと、斉明天皇・天智天皇のころの遺構である可能性が高まってきた。
先に触れた日本最古の製鉄炉跡が見つかったのも、この山の中腹である。
山頂を囲うように、一周2.8キロにわたり高さ7メートルもの土塁と石垣の城壁が築かれていたというから驚きだ。
現地を訪れ、およそ3時間をかけて、城内を一周してみた。
山を登り切ると、眼に飛び込んでくるのは、復元された西門と「角楼」だ。
吉備平野に数多く点在する古墳を見下ろし、瀬戸内海まで見える眺望の良さは、敵に備えるのにふさわしい。
西門から南門・東門へと抜けるころ、アップダウンが激しくなり、見学者もまばらになる。
発掘の結果、西門だけでなく、東西南北にはそれぞれ防御に適した構造を持つ門が築かれていたことが分かった。
こうした特徴は朝鮮に見られる山城と共通する。
設計には渡来人が関わっていたのだ。
では、完成させるには、一体どれほどの労働力が必要なのか。
ある研究ではのべ17万人と試算されていて、そうなると、なぜこれほど大規模な城が必要だったのか?その理由も気になってこよう。
これまでは、663年【白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)】で日本が唐と新羅の連合軍に敗北したのをきっかけに、連合軍が日本へ侵攻してくることに備えた、とする見方が一般的だった。
しかし、最近は別の説が浮上してきている。
建築時に使われた古代の物差しを復元した結果、鬼ノ城の南門が白村江の戦い【以前】のものだったというのだ。
この解釈によれば、斉明天皇が築城したとする説に軍配があがる。
斉明天皇が、これほど手間のかかる鬼ノ城を作り上げた目的は、2万の兵たちの練兵にあったのだろう。
日本軍が海を渡るのは、500年代前半の継体天皇以来であり、150年近く途絶えていた。
岡山の一地域に残された邇摩郷の伝承と鬼ノ城。
これらはヤマトと吉備が密接にかかわった歴史の記憶と足跡だったのだ。
そこには、ヤマト王権に屈服させられた過去の遺恨を捨て去り、協力を惜しまなかった吉備の人々がいたのである。
飛鳥の民に「狂っている」と批判された斉明天皇。
60歳を優に超していた老女が戦地に自ら赴き、土木工事を断行しているのは驚異の一言につきる。
吉備の人々は、斉明天皇の強烈なまでの熱意に打たれて、工事に参加したのかもしれない。
斉明天皇の血は天智天皇・天武天皇にも引き継がれ
斉明天皇の人となりを一言でいえば、
「地形すら思い通りに変える野心たっぷりな女性」
となろうか。
自分のやりたいことは徹底的にやる。人の意見には左右されず、我が道を行くタイプだ。
独裁者ともいえる遺伝子は、多くの政治改革を行った二人の子の天智天皇・天武天皇にも引き継がれていく。
しかし、ヤマトと吉備が再び手を結ぶことで栄光の再現を試みた斉明天皇は、661年7月、海を渡る前に福岡県で急死してしまう。
中大兄皇子は、母の遺志をついで開戦に踏み切り、白村江の戦いで大敗した。
斉明天皇は、息子や吉備の兵士たちの行く末を案じたまま亡くなったに違いない。
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恵美嘉樹・記(歴史作家)
本記事は恵美嘉樹の著書『日本古代史紀行 アキツシマの夢』(→amazon)を一部再編集したものです。
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