坂井政尚

『太平記英勇伝二十九』の坂井尚政(作・落合芳幾)/wikipediaより引用

織田家

信長三十六功臣の一人「坂井政尚」織田家に殉じた名無き功臣の働きを振り返る

武田信玄の武田二十四将や、黒田官兵衛の黒田二十四騎など。

戦国大名には、当人と有能な家臣を示す言葉がありますが、実は織田信長にも、この手の言葉があったのをご存知ですか?

それが「三十六功臣」です。

信玄や官兵衛よりも多い36人――というのがなんとも矜持を感じさせるもので、織田信長を祀る京都の建勲神社(たけいさおじんじゃ)の創建時(1870年)に選ばれたとのこと。

現在、拝殿には該当する武将らの絵が飾られています。

では、その36名とは誰なのか?

ざっと表にしてみますと……。

織田家三十六功臣
池田恒興平手政秀平手汎秀堀秀政
豊臣秀吉柴田勝家丹羽長秀佐久間信盛
佐久間盛政佐々成政前田利家滝川一益
村井貞勝山内一豊毛利新助簗田広正
森可成森蘭丸蒲生氏郷河尻秀隆
坂井久蔵坂井政尚原田直政細川藤孝
道家尾張守湯浅甚助福富貞次不破光治
織田信業織田信光菅谷長頼武井夕庵
稲葉一鉄猪子兵助氏家卜全斎藤利興

まさに多士済々のラインナップであり、今回、注目したいのは1570年12月23日が命日である坂井政尚――。

その経歴を考えたとき、同じ織田家の武将としては中川重政に近いでしょうか。

信長が天下に王手をかける前に散ってしまい、目立たないのが惜しい、そんな武将の生涯を振り返ってみましょう。

 


美濃攻略から信長の上洛にも付き従い

織田家臣団には坂井という姓の人物が複数おり、政尚はどの家の出であるか特定できません。

出身は美濃であり、斎藤氏から織田家に仕えるようになりました。

織田家への出仕時期は早いとされております。

織田信長/wikipediaより引用

そして美濃の攻略に活躍すると、東美濃の明智城主に就任。

この明智城は、明智光秀に縁が深いのではないか?とも目されますが、決定的な史料がなくもどかしい存在であります。

その辺の詳細は以下の記事にお譲りして、先へ進みましょう。

明智城の戦い
明智城の戦いは美濃の要衝を巡る合戦~だから光秀や光安の居城は義龍に攻められた

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永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。

その際に付き従っていた四名が以下の通り。

坂井政尚
柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成

いずれも織田家には欠かせない武将ばかりですね。

この四名は、勝竜寺城攻めに参加。

首を多数あげ、政尚も名を上げております。

 


姉川では嫡男の久蔵を喪う

信長に従い、無事に京都へ入った四名。

そこに佐久間盛信も加わり、彼ら五名が京都と近畿の内政を担当しました。

禁制の発布や税金の徴収など。

来たる織田の天下に向けて、地固じがためをしたのが政尚です。

この五人組は永禄12年(1569年)春まで手を組んで働いており、さらに以下四名の後任者が追加されました。

丹羽長秀
木下秀吉
明智光秀
中川重政

後に大出世を果たす、織田家臣団でも錚々たる面々ですね。

このあと政尚は名だたる合戦に参加しております。

『太平記英勇伝二十九』の坂井尚政(作・落合芳幾)/wikipediaより引用

代表的なものは【姉川の戦い】や【小谷城の戦い】です。

苦戦を強いられた「姉川の戦い」では、政尚の嫡男である坂井久蔵が討死を遂げております。

その後も浅井朝倉との対戦に身を賭す――それが政尚でした。

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