戦国大名には、当人と有能な家臣を示す言葉がありますが、実は織田信長にも、この手の言葉があったのをご存知ですか?
それが「三十六功臣」です。
信玄や官兵衛よりも多い36人――というのがなんとも矜持を感じさせるもので、織田信長を祀る京都の建勲神社(たけいさおじんじゃ)の創建時(1870年)に選ばれたとのこと。
現在、拝殿には該当する武将らの絵が飾られています。
では、その36名とは誰なのか?
ざっと表にしてみますと……。
織田家三十六功臣 | |||
池田恒興 | 平手政秀 | 平手汎秀 | 堀秀政 |
豊臣秀吉 | 柴田勝家 | 丹羽長秀 | 佐久間信盛 |
佐久間盛政 | 佐々成政 | 前田利家 | 滝川一益 |
村井貞勝 | 山内一豊 | 毛利新助 | 簗田広正 |
森可成 | 森蘭丸 | 蒲生氏郷 | 河尻秀隆 |
坂井久蔵 | 坂井政尚 | 原田直政 | 細川藤孝 |
道家尾張守 | 湯浅甚助 | 福富貞次 | 不破光治 |
織田信業 | 織田信光 | 菅谷長頼 | 武井夕庵 |
稲葉一鉄 | 猪子兵助 | 氏家卜全 | 斎藤利興 |
まさに多士済々のラインナップであり、今回、注目したいのは1570年12月23日が命日である坂井政尚――。
その経歴を考えたとき、同じ織田家の武将としては中川重政に近いでしょうか。
信長が天下に王手をかける前に散ってしまい、目立たないのが惜しい、そんな武将の生涯を振り返ってみましょう。
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美濃攻略から信長の上洛にも付き従い
織田家臣団には坂井という姓の人物が複数おり、政尚はどの家の出であるか特定できません。
出身は美濃であり、斎藤氏から織田家に仕えるようになりました。
織田家への出仕時期は早いとされております。
そして美濃の攻略に活躍すると、東美濃の明智城主に就任。
この明智城は、明智光秀に縁が深いのではないか?とも目されますが、決定的な史料がなくもどかしい存在であります。
その辺の詳細は以下の記事にお譲りして、先へ進みましょう。
明智城の戦いは美濃の要衝を巡る合戦~だから光秀や光安の居城は義龍に攻められた
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永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。
その際に付き従っていた四名が以下の通り。
坂井政尚
柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成
いずれも織田家には欠かせない武将ばかりですね。
この四名は、勝竜寺城攻めに参加。
首を多数あげ、政尚も名を上げております。
姉川では嫡男の久蔵を喪う
信長に従い、無事に京都へ入った四名。
そこに佐久間盛信も加わり、彼ら五名が京都と近畿の内政を担当しました。
禁制の発布や税金の徴収など。
来たる織田の天下に向けて、地固をしたのが政尚です。
この五人組は永禄12年(1569年)春まで手を組んで働いており、さらに以下四名の後任者が追加されました。
丹羽長秀
木下秀吉
明智光秀
中川重政
後に大出世を果たす、織田家臣団でも錚々たる面々ですね。
このあと政尚は名だたる合戦に参加しております。
苦戦を強いられた「姉川の戦い」では、政尚の嫡男である坂井久蔵が討死を遂げております。
その後も浅井朝倉との対戦に身を賭す――それが政尚でした。
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