足利義教/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代

足利義教48年の生涯をスッキリ解説!クジ引き将軍に正しい評価を今こそ

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室町幕府の将軍で「覚えろ!」といわれるのは
足利尊氏 1代
足利義満 3代
足利義政 8代
足利義昭 15代
の四人ですよね。

しかし、義満と義政の間に、いろんな意味でトンデモナイ将軍が存在していました。

室町幕府六代将軍の【足利義教(よしのり)】です。

「くじ引き将軍」などの呼び名で、ネタ的に知られるようになってますが、ある意味、最もマジメに将軍をやっていた人。
一体どんな人物だったのでしょうか。

 

義満の五男として生まれ、すぐにお寺へ

義教は最初「義宣」という名前でした。

僧侶の頃からですと、義円→義宣→義教という変遷。

度重なる改名の理由は
”「よしのぶ」という読みが「世忍ぶ」に通じてあまり縁起が良くない”
というものだったそうなのですが……。

だったら先に考えておけよ、っと(´・ω・`)

この記事ではわかりやすさを勇戦し、最初から「義教」で統一させていただきますね。

義教は、義満の五男として生まれました。
既に兄が二人いたため、生後スグに青蓮院というお寺に入れられます。

そしてそのまま僧侶として修行を積み、大僧正や天台座主になっていますから能力としては非凡なものがあったのでしょう。
僧侶としても将来を嘱望されていました。

しかし……。

 

兄の義持がやさぐれてしもたー

兄の室町4代将軍・足利義持が危篤に陥ったことで、義教は還俗して政治の世界に入らざるを得なくなります。

実は義持というのが、なかなかヤサグレてた方で……。

足利義満さんの息子・足利義持/wikipediaより引用

彼の息子だった五代将軍・足利義量が早世したことに加え、自身が亡くなる間際に
「跡継ぎについて遺言しても、どうせオマエラ、俺が死んだ後は言う事聞かないだろ? だから俺が死んでから次の将軍決めればいいじゃん( ゚д゚)、ペッ」
みたいなことしか言わなかったのです。

ある意味、正解を導き出してしまったんですが、跡継ぎ問題では、ちょっと前に朝廷が南北朝時代で大変な目に遭ったのですから、将軍様としてもぜひとも熟慮して欲しかった。

地方の武士ならともかく、足利家の嫡流なんですからね。

※足利の家系が名門と呼ばれる所以は以下の図に(武田信玄記事より)

 

石清水八幡宮のクジ引きで文句なし!?

幸い、このときの管領・畠山満家をはじめとした室町幕府の中枢たちは、賢明な判断のできる人でした。

「石清水八幡宮で、出家されている義持様の弟君四人の名を書いたくじを引こう。
その後は神意だから、お互いゴタゴタいいっこなしな」(超訳)

ということになり、選ばれたのが義教です。

実際はハナから義教に決まっていて、あくまで【神託】という格好をつけるための出来レースだった説も根強くあります。
当時の宗教観だと、そっちの方がリアルかもしれませんね。

石清水八幡宮

ともかく、それを見届けて満足したのか、くじの結果後に義持は没。
義教は武士としての元服も済ませておらず、髪を伸ばすと共に儀式の準備を進めることになりました。

父の葬儀も色々と大変だったでしょうから、この時期の幕府関係者はてんやわんやですね。

そういった苦労は、あまり歴史に残りませんが、それから三ヶ月後、今度はときの帝である称光天皇が危篤に陥ります。

称光天皇には男子がなく、称光天皇の弟である小川宮も早世していました。
さらに、称光天皇自身がその後の後継者決定について、父である後小松上皇と大ゲンカしたことがあったため、この時点でもまだ次の皇太子が決まっていません。

将軍継承が決まった義教が最初に直面した大きな仕事は、この問題を解決することでした。

いかにも難しそうなケースですが、彼は意外にアッサリとまとめています。

 

崇徳上皇の不在中に弟即位でややこしや~

カギは、遡ること70年ほど前にありました。

当時の将軍は足利尊氏
南北朝時代に突入間もない頃のため両者の戦力にはまだ余裕が見られ、北朝方では、幕府の重臣・高師直と、尊氏の弟・直義の対立から始まった【観応の擾乱】が起きていました。

尊氏はまず直義を片付けるため、南朝との対立を緩和しようと考えます。
そこで、幕府とタッグを組んでいる北朝でも、南朝と同じ「正平」の元号を使い、北朝の崇光天皇を廃することで、南朝と和議を結びました。

【正平一統】と呼ばれる出来事です。

しかしその後、南朝方が京都を攻め、崇光上皇をはじめとした北朝方の皇族を連れ去ったことでこれが破綻し、再び南北朝に分裂し、話が長引いていくわけです。

崇光上皇たちはやがて京に戻ってきました。
そのころ北朝では、かろうじて拉致を免れた上皇の弟・後光厳天皇が即位。

……なんとなく話が読めてきた方もおられるでしょうか。

崇光上皇からすれば、自分の息子が次の天皇になるものだと信じていたわけですから、
「何アイツ、弟だからって、なに、勝手に即位してんの?」
となってしまいます。

一方、後光厳天皇は
「ことの成り行きで即位したけど、これからは私の子孫が皇統を継ぐってことでいいんだよね!」
と考えるわけです。

最終的に幕府が後光厳天皇の側についたため、次は後光厳天皇の息子である後円融天皇が即位しました。

その先を流れで言えば、後円融天皇の息子が後小松天皇、さらに後小松天皇の息子が称光天皇と、皇統はこれで安定するかに見えたのです。

【鎌倉~南北朝時代・両統迭立の流れ】

……が、称光天皇には皇子が生まれず……というところで、義教の時代に時系列が戻ります。

 

天皇家のゴタゴタを見事に解決するその腕前

義教はこの間も崇光上皇の子孫が続いていたことに着目し、
「崇光上皇のひ孫にあたる皇子・彦仁王様を次の天皇にすれば、一番平穏に済むのではないか」
と考えました。

密かに彦仁王と連絡を取り、後小松上皇にも意見を聞いてみると「次は彦仁王に」とのお達し。

そこで義教は
「そうおっしゃるだろうと思いまして、実は彦仁王様を伏見宮御所から京へお迎えしております」
と伝えると、上皇も満足。

トントン拍子に話が進み、称光天皇の崩御後に彦仁王が後花園天皇として即位しました。これにて崇徳上皇の系譜に戻ったのですね。

先日、室町時代マトメの記事でも

室町時代マトメ!南北朝~戦国時代の複雑な中世社会をやさしく解説します

短 ...

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織田信長より足利義教のほうがよっぽど魔王っぽい」
と書きましたが、義教はこういった配慮や根回しもできる人だったのです。少なくともこの時点では。

 

将軍&幕府の権威を強化

その後、将軍宣下とそれにふさわしい官位の昇進が進み、源氏長者としても認められ、義教の世間的な立場は整いました。
途中、後小松上皇とのちょっとした行き違いで険悪ムードになりかけましたが、それも尾を引かずに済んでいます。

義教はお寺暮らしが長かったこともあってか、当初は義持の政策を重臣たちが引き継いで政治を行っていました。

そして武士の生活と職務に慣れた頃から、しだいに将軍と幕府の権威を強化していきます。

「父・義満の時代のように、将軍の権威を高めることによって世の安定を目指そう」

義持は父の義満が大嫌いだったため、義満の政策を否定するところから始まりましたが、義教は逆に義満の政策を復活させています。

父と同じように富士山への遊覧に出かけたり、義持の時代には中止していた勘合貿易を復活させたり。
わかりやすく傾倒しています。

生まれてすぐ仏門に入れられてますので、父への思慕も含まれていたのかもしれません。

政治的な面でも精力的です。
諸大名への諮問を将軍自ら行うようにしたり。
自ら主催し、参加者を指名して行う会議「御前沙汰」を採用したり。

特定の身分や家柄の者、特に管領が恣意を挟めないようにしました。

管領は、主に軍事に関すること、例えば有事の際の動員を諸大名に催促することや、戦功に対する褒賞に関することを任せようとしました。
乱暴に言うと
「管領は管領の仕事をきちんとやれ。欲を出してそれ以上のことに口と手を出すな」
という感じでしょうか。

 

軍事も怠らず 大内氏に九州を平定させる

軍事面では、将軍の親衛隊にあたる奉公衆を整え、いざというときに備えます。

「権威があっても、武力がなければどうにもならない」
というのは、これまでの歴史でも証明されていますしね。

親戚である鎌倉公方・足利持氏が反抗的な態度を取り続けていたときも、武力介入しようとしています。

また、守護大名の大内盛見に
「九州の武士も全部幕府の傘下に入れたいから、お前がぶっ飛ばしてこい」(超訳)
と命じました。

盛見自身は討ち死にしてしまいましたが、甥っ子の大内持世が山名氏の助けを借りつつ、少弐氏・大友氏などに勝ち、義教の目的を達成しています。
義教はその褒美として、持世を九州探題に任じました。

恐ろしいイメージが先立つ義教ですが、結果を出せばちゃんと褒美をくれるところは公平ですね。

本当の暴君ならば、人をこき使うだけ使って何も与えませんから。
もっと悪いパターンだと、先祖代々の功臣にイチャモンをつけてor讒言を真に受けて処刑する、なんてこともありますし。

 

古巣の延暦寺にも容赦はしない!

他に特徴的な点としては、
「大覚寺統(旧南朝=後南朝)の皇族の断絶を図った」
という点が挙げられます。

後南朝の問題もありますが、義教も上記のような経緯で将軍になっているだけに、
「俺の目の黒いうちは同じ問題を起こさせない」
と思っていたのかもしれません。

後南朝の血筋としてはもう少し続いていますが、完全に歴史の表舞台からは消えてしまっています。
義教時代の苛烈さをやり過ごそうとしているうちに、実力がなくなってしまったのでしょうね……。

また義教は、古巣の比叡山延暦寺にも容赦しませんでした。

延暦寺根本中堂

院政の代名詞である白河天皇の有名な発言。

「賀茂川の水、賽の目、山法師」
でも知られる通り、延暦寺は何百年も「この神輿が目に入らぬか!」で好き勝手やってきた組織です。

それを内側からずっと見ていますから、自身が将軍になれば、「僧侶は僧侶らしくしろ!」と思い直したのかもしれません。

具体的には、将軍に就いてすぐ、弟・足利義承を天台座主にし、延暦寺をおとなしくさせようとしたのです。しかし……。
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