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【足利義教】
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崇徳上皇の不在中に弟即位でややこしや~
カギは、遡ること70年ほど前にありました。
当時の将軍は足利尊氏。
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南北朝時代に突入間もない頃のため両者の戦力にはまだ余裕が見られ、北朝方では、幕府の重臣・高師直と、尊氏の弟・直義の対立から始まった【観応の擾乱】が起きていました。
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尊氏はまず直義を片付けるため、南朝との対立を緩和しようと考えます。
そこで、幕府とタッグを組んでいる北朝でも、南朝と同じ「正平」の元号を使い、北朝の崇光天皇を廃することで、南朝と和議を結びました。
【正平一統】と呼ばれる出来事です。
しかしその後、南朝方が京都を攻め、崇光上皇をはじめとした北朝方の皇族を連れ去ったことでこれが破綻し、再び南北朝に分裂し、話が長引いていくわけです。
崇光上皇たちはやがて京に戻ってきました。
そのころ北朝では、かろうじて拉致を免れた上皇の弟・後光厳天皇が即位。
……なんとなく話が読めてきた方もおられるでしょうか。
崇光上皇からすれば、自分の息子が次の天皇になるものだと信じていたわけですから、
「何アイツ、弟だからって、なに、勝手に即位してんの?」
となってしまいます。
一方、後光厳天皇は
「ことの成り行きで即位したけど、これからは私の子孫が皇統を継ぐってことでいいんだよね!」
と考えるわけです。
最終的に幕府が後光厳天皇の側についたため、次は後光厳天皇の息子である後円融天皇が即位しました。
その先を流れで言えば、後円融天皇の息子が後小松天皇、さらに後小松天皇の息子が称光天皇と、皇統はこれで安定するかに見えたのです。
【鎌倉~南北朝時代・両統迭立の流れ】
……が、称光天皇には皇子が生まれず……というところで、義教の時代に時系列が戻ります。
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天皇家のゴタゴタを見事に解決するその腕前
義教はこの間も崇光上皇の子孫が続いていたことに着目。
「崇光上皇のひ孫にあたる皇子・彦仁王様を次の天皇にすれば、一番平穏に済むのではないか」と考えました。
密かに彦仁王と連絡を取り、後小松上皇にも意見を聞いてみると「次は彦仁王に」とのお達しです。
そこで義教は「そうおっしゃるだろうと思いまして、実は彦仁王様を伏見宮御所から京へお迎えしております」と伝えると、上皇も満足。
トントン拍子に話が進み、称光天皇の崩御後に彦仁王が後花園天皇として即位しました。これにて崇徳上皇の系譜に戻ったのですね。
先日、室町時代マトメの記事でも
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と書きましたが、義教はこういった配慮や根回しもできる人だったのです。少なくともこの時点では。
将軍&幕府の権威を強化
その後、将軍宣下とそれにふさわしい官位の昇進が進み、源氏長者としても認められ、義教の世間的な立場は整いました。
途中、後小松上皇とのちょっとした行き違いで険悪ムードになりかけましたが、それも尾を引かずに済んでいます。
義教はお寺暮らしが長かったこともあってか、当初は義持の政策を重臣たちが引き継いで政治を行っていました。
そして武士の生活と職務に慣れた頃から、しだいに将軍と幕府の権威を強化していきます。
「父・義満の時代のように、将軍の権威を高めることによって世の安定を目指そう」
義持は父の義満が大嫌いだったため、義満の政策を否定するところから始まりましたが、義教は逆に義満の政策を復活させています。
父と同じように富士山への遊覧に出かけたり、義持の時代には中止していた勘合貿易を復活させたり。
わかりやすく傾倒していますね。
生まれてすぐ仏門に入れられてますので、父への思慕も含まれていたのかもしれません。
政治的な面でも精力的です。
諸大名への諮問を将軍自ら行うようにしたり。自ら主催し、参加者を指名して行う会議「御前沙汰」を採用したり。
特定の身分や家柄の者、特に管領が恣意を挟めないようにしました。
管領は、主に軍事に関すること、例えば有事の際の動員を諸大名に催促することや、戦功に対する褒賞に関することを任せようとしました。
乱暴に言うと「管領は管領の仕事をきちんとやれ。欲を出してそれ以上のことに口と手を出すな」という感じでしょうか。さらに……。
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