足利義教

足利義教/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世

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源氏お得意の内輪揉めで関東甲信越がヤバイ!

次なる争いは【永享の乱】です。

鎌倉公方・足利持氏の態度がいよいよ見過ごせないものとなったのです。

とんでもなくややこしい話なので、詳細は以下の記事にて。

永享の乱で関東に火種を大量投下~そして鎌倉公方・足利持氏は切腹へ

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無理やりまとめておきますと

・足利持氏は自分が六代将軍になれると思い込んでいたのになれなかったのでグレた

・関東管領(関東公方の相方)上杉憲実が苦言を呈するも無視

・持氏の反抗的な態度が義教にバレて討伐の勅令が出る

・持氏が負けて剃髪・降伏するも、義教が許さず、持氏一族を処刑

……という感じです。

この後、関東には「◯◯公方」が乱立してさらにめんどくさくなり、持氏の遺児を巡るゴタゴタが始まり、さらには戦国時代にもつれ込んで、上杉謙信武田信玄なども関わってくることになります。

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むちゃくちゃ強引に一行でまとめると、

「源氏お得意の内輪揉めで関東甲信越がヤバイ!」

ってところでしょうか。

 


次々に勃発するトラブル 弟までもが挙兵して

ちなみにこの間、後南朝や大和の有力国人との間で

【大和永享の乱】

という戦も起きています。

こちらは、南北朝合一の前から有力国人だった越智氏(南朝方)と筒井氏(北朝方)の争いが続いていたことが原因。

一度は奈良の興福寺と幕府が仲裁に入ったものの、うまく片が付かずに義教がブチ切れ、力尽くでの解決を目指します。

それでも綺麗には終わらず、加えて義教の弟である義昭(ぎしょう・”よしあき”ではない)が、門跡を務めていたお寺から逃げ出して挙兵するというワケわかめな展開を迎えます。

実際、大和の国人や後南朝と結託してカオスは加速し、解決までに10年の月日を要するのでした。

義昭

かたや親戚のワガママ。

かたや幕府からごく近所の争い。

ついでにいうと、同時期に【正長の土一揆】なども起きています。これまた詳細は以下の記事にて。

正長の土一揆
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こんな短期間にあっちこっちで暴れる輩が出てきていたのでは、義教でなくても「皆まとめて消し飛べ!!(#゚Д゚)ゴルァ!!」と思いたくなりますね。

義教はこれらの討伐をする際、天皇から「治罰綸旨」を貰い受けていました。

書いて字のごとく「アイツらは世を乱すという罪を犯したので、退治するために天皇のお墨付きをもらう」ということです。

相手を「朝敵」=「国家の敵」と天皇から指名してもらうことで、幕府側に大義名分ができるわけですね。

後に、戊辰戦争の際に明治政府軍が「錦の御旗」を掲げたことにより、徳川慶喜が朝敵となって「ひええ」となったアレを、室町幕府側がやったわけです。

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「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」

……とまあ、こんな感じで義教は大義名分を整えつつ、幕府を揺るがしかねない物事を一つ一つ迅速に潰していこうとしておりました

もともと「征夷大将軍」というのは「朝廷に従わないヤツを討伐する」役職ですから、その職務に忠実だったともいえます。

しかし、彼の場合、それが日常生活にも及んだことが大問題でした。

「料理がまずい」

「酌の仕方が下手」

「儀式の最中に笑顔になった」

などなど、ほんの些細なことでクビになったり殴られたりした人が大勢いたのです。

しかも話の出所のわからない言い伝えや、後世に作られた暴君のテンプレを当てはめたものではなく、同じ時代の公家の日記などに書かれているのですから、事実とみなさざるを得ません。

当時の天皇の父である伏見宮貞成親王(後崇光院)の日記『看聞日記(かんもんにっき)』には

「万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ」

とまで書かれています。

この日記、他の記事はほとんど琵琶の練習や近しい人の訃報などの穏やかなものなので、余計にこの記述が際立つんですよね……。

何だか義教が「名前を言ってはいけないあの人」のようです。まあ、この経緯では無理もありませんが。

 

赤松氏に呼び出され暗殺 誰も味方はいなかった

義教の立場になって考えてみると、全ては「将軍の権威を高めることで、皇室の争いや世の中を安定させる」ためでした。

ただ、そのサジ加減に問題があったのでしょう。

もともとが天台宗のトップである天台座主まで務めた人だけに、他人にも厳しすを求め過ぎたのかもしれません。

そういう意味では、清濁併せ呑むような器量が問われる将軍よりも、宗旨を守るのが第一の天台座主でいたほうが良かったかもしれません。

案外、義教がずっと天台座主を務めていたら、延暦寺も引き締まってまともになっていたりして。

上は当時の天皇の父、下は京童までに恐れられた義教。

身近な室町幕府の重臣たちともなれば、さらに緊張感を強いられるものでした。

それが極まったのが、室町幕府・重臣の一角、赤松氏でしょう。

当時、幕府の長老格になっていた赤松満祐は義教と不仲で、疑心暗鬼に陥った彼が義教を自宅に招いて討ってしまったのです。

享年48。

他の守護大名も同席していたのですが、将軍に味方する者はほぼ皆無。

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義教がドギツイ人であったことは間違いないありません。

しかし、真面目に将軍をやっていたのもまた事実です。

もうちょっと優しい面をうかがわせるエピソードが見つかれば、いい感じに人気が出そうなんですけどね。

織田信長も、庶民に優しくしていた逸話が広く知られるようになってからイメージが変わりましたし。

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案外、義教は大河向きな人かもしれません。

室町時代って今まであんまり題材になってないですし、いつまでも戦国と幕末の反復横跳びもできないでしょう。

問題は、現状であまりにも人気がないこと。

しかし、素性を知られてないということでもあり、意外と人気が爆発するかもしれません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「足利義教」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
足利義教/wikipedia

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