一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)がわかる!源平合戦の趨勢を決めた一戦

寿永三年(1184年)の2月7日、源平の戦いにおけるハイライトの一つ【一ノ谷の戦い(一の谷の戦い)】がありました。

とても有名なので何となく名称を覚えている方は多いと思いますが、具体的にいつ行われて、どんな影響を残したかというとあまり知られていない気がします。

源義経が【鵯越の逆落とし(ひよどりごえ)】をやった戦い、という認識が主流でしょうかね。

源義経
源義経 史実の人物像に迫る! 兄・頼朝とすれ違い続けた31年の儚き生涯

続きを見る

しかし実際は、他にも印象強めのエピソードがいくつも含まれている戦でした。

 

大天狗の罠?平氏が油断したところへ源氏凸!

まずは、この戦いに至るまでの経緯を簡単に振り返ってみましょう。

後白河法皇から正式に平家追討を命じられた源氏軍は、関東から上京する途中でデカイ仲間割れをしてしまいました。

木曽義仲とのアレコレです。

大天狗と称された後白河天皇(後白河法皇)若かりし頃を振り返ってみる

続きを見る

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
源義仲(木曽義仲)が平家討伐で大活躍! 最期は義経に討たれた生涯31年

続きを見る

そして何とか片付けたのですが、その間に平家は清盛が新しい都としていた福原(現・兵庫県)で体勢を整え、再び源氏と戦おうと画策していました。

しかし、大天狗(※後白河法皇のこと)から「戦をやめい」という命令が届きます。

それが策かどうかは不明です。9割8分くらいの確率で策でしょうけど。

ともかくこれを信じてしまった平家が一瞬油断したところへ、源氏軍がワーっと攻めかかってきて始まったのが【一ノ谷の戦い】です。

逆落とし以前からほぼ奇襲に近い感じなワケで。うーん、策士ですね。

やってきたのは、いつも通り?影の薄い源範頼と、その反対に目立ちすぎな源義経でした。

範頼は平家方の大将にあたる平知盛(清盛四男・壇ノ浦まで実質総大将みたいな感じだった人)らと正面きって戦っており、サボッていたワケじゃありません。

源範頼(頼朝の弟)の不審死~10人以上いた兄弟で消されたのは義経だけでなく

続きを見る

何しろ義経が当時の規格外なことばかりやって、しかも成功してしまうのでいかんせん目立たないだけ(´・ω・`)

範頼がどんな人だったかは以前取り上げたことがありますので、たまには目立たないお兄ちゃんのことも思い出してあげてください。

 

鵯越の逆落し 場所はいまいちハッキリせず

しかし、現代の我々にとっては問題が一つ。

義経が目立った最大の理由である「逆落としの場所」が、実はハッキリしていません。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

「鵯越」という地名の場所と、実際の合戦場に少し距離があるのだそうで。

そのため主戦場である一ノ谷でやった可能性も高く、学者先生方の間でも意見が割れているとか。

『平家物語』などでは前者ですが場所が合わず、後者だとすると記録されていないのはなぜか? ということです。

もしかすると、地名の伝聞ミスか変更があったのかもしれませんねえ。

鉄拐山

もう一つの“急坂”候補とされている鉄拐山(眼下に須磨浦)/photo by Tak1701d wikipediaより引用

平家物語は誰か一人が書いたものではなく、弾き語りで広まっていったものですから、どこかの誰かが記憶違いや伝え忘れた点がないとも限らないですし。

義経が逆落としの場所を決めたのも、地元の猟師に「鹿が通れる道はありますが、馬はちょっと……」といわれて「鹿が通れるなら馬もおk!e 突撃!!」と考えたから、という曖昧なものでした。

これが超訳じゃなくてガチなんだから、もう何も言えない。

まるで【馬鹿の語源】のような話ですね。兎だったらさすがの義経も諦めたかもしれません。

その場合でも源平の行く末は変わらなかったでしょうが、おそらく彼の知名度は一段低くなっていたんでしょう。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-,

© 2021 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)