一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

源平合戦の趨勢を決めた一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)信長でお馴染み平敦盛も討死

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源平の興亡は実質的に決まった!?

また、平家物語で五本の指に入る超有名なエピソード「敦盛の最期」も一ノ谷での話です。

熊谷直実が逃げる若武者を組み伏せると、その幼さに驚き、苦渋の決断で首を取ったところ、まだ17歳の平敦盛であり直実の心に深く傷を残した――そんな話ですが、歴史の授業ではあまり取り扱われず、国語だけというのはちょっと寂しいというかビミョーな気になりますね。

逃げる平敦盛(左)と追う熊谷直実(右)/wikipediaより引用

こういうところで教科を越えてリンクさせると面白いんじゃないかと思うのです。

特に平安~鎌倉あたりって文学と歴史の関連が深い気がするんですよね。

熊谷直実にしても、この一件で現代で言うところのPTSDのような症状を心に負ってしまい、人の世の虚しさに打ちひしがれてしまう――そんな直実と敦盛から生まれたのが、あの有名な世阿弥作の能『敦盛』。

人間五十年

下天(げてん)の内をくらぶれば

夢幻(ゆめまぼろし)の如くなり

一度(ひとたび)生(しょう)を得て

滅せぬ者のあるべきか

織田信長でお馴染みのこの『敦盛』は『信長公記』の記録によると【桶狭間の戦い】前に舞ったとされ、非常に印象深いものです。

閑話休題。熊谷直実に関しては記事末の関連記事をご覧いただくとして、話を一ノ谷に戻しましょう。

後は結果ですね。

 


多くの人材を失ってしまった平家

結果としては当然ながら「勝った源氏・負けた平家」という構図になります。

しかし、戦いというのは最初から勝敗が決まっているワケじゃありません。

もともと戦の準備は整っており、平家だって勝つため死に物狂いで戦いました。

そのぶん犠牲も大きく、特に一族の中の若い世代がたくさん討死してしまいます。

平清盛の異母弟や息子の家の子供や清盛の養子など、次代の中枢になるべき人材の多くが一ノ谷で失われたのでした。

平敦盛が笛の名手であったことは有名ですが、他にも和歌や琵琶に秀でていた人もいたとか。

その辺はさすが名門ですね。

もしこの後で平家が盛り返しても、いずれ人材不足、後継者不足に悩んだと思われます。

ゆえに実質的には一ノ谷で源平の興亡は決まっていたとも言えそうです。

源氏は源氏ですぐに仲間割れをしますので、未来は不確定とも考えられますが……。

ともかく大打撃を受けた平家はさらに西へ逃げ、勢いに乗る源氏はそれを追い……次のハイライト【屋島の戦い】へと続きます。

那須与一の出番となりますが、その詳細は以下の記事にて。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名辞典』(→amazon
上横手雅敬『源平争乱と平家物語 (角川選書 (322))』(→amazon
『源平興亡三百年 (SB新書)』(→amazon
一ノ谷の戦い/Wikipedia

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