前田宗辰の肖像画

加賀騒動に関わりのある藩主の一人・前田宗辰/wikipediaより引用

江戸時代

加賀騒動の顛末|百万石の加賀藩で“藩主の暗殺未遂事件”が起きていた

天正9年10月2日(1581年10月29日)は織田信長前田利家に能登国の支配を任せた日です。

石高は20万ほどであり、まだまだ百万石には遠いですが、これを起点として「加賀藩の初代藩主は前田利家なり」という考え方もあるようでして。

江戸時代の藩祖がどれだけ重要だったか――ニヤニヤする利家の顔が目に浮かんできそうですね。

前田利家の肖像画

前田利家/wikipediaより引用

しかしその割には、日本全国どちらの藩でも、藩祖の顔を潰すような「お家騒動」が勃発しており、実は百万石で知られる加賀藩ですらその危機がありました。

なんと藩主の暗殺未遂事件まで勃発し、伊達騒動、黒田騒動と共に三大騒動にも数えられる。

「加賀騒動」の顛末を振り返ってみましょう。

※この騒動は大河ドラマ『べらぼう』の主役である蔦屋重三郎が生まれる少し前から起こり、彼が幼稚園児くらいの頃にようやく収まっています

 


百万石でも厳しい財政事情

百万石で知られる加賀藩は、外様大名の中で最も広く豊かな土地を持っていた大藩。

そのぶん普段の出費や災害時の被害が甚大となるばかりか、大大名の江戸屋敷には将軍が御成(お出かけ)することもあり、そのたびに将軍接待用の御殿を新しく建てなければなりませんでした。

当然、接待当日の催しや食事なども大名側が手配せねばなりません。

要は、大きな藩ほどラクになるのではなく、むしろ出費もデカくなりがちでした。

加賀藩では、五代藩主の前田綱紀が散財しまくっていたことも影響して、財政は悪化する一方。

前田綱紀の肖像画

前田綱紀/wikipediaより引用

綱紀は、貧民救済のため小屋を建てたり、学問を奨励したり、善政を敷いた面もあったのですが、

「幕府から睨まれないようにするには無駄な金を持たないに限る!」

と考え、これを実践していたのです。

完全に間違っているとは言えませんし、綱紀も時代が下るごとに藩財政がさらに苦しくなるとは想像できなかったでしょうから、致し方ない面もあろうかと思います。

ともかく、綱紀の子である前田吉徳(よしのり)の時代に加賀藩は「大国なのに生活が苦しい」という、実に不格好な状況となっていました。

 


藩政改革に足軽を登用

財政改善のため、加賀藩は倹約・増税・改革を試みるも、決定打には至りません。

そこで吉徳は一勝負を試みます。

足軽の家出身で、側近くに仕えていた大槻伝蔵朝元(おおつき でんぞう ちょうげん)という人物を引き立てたのです。

 

伝蔵は身分が低いだけに細かなところに目が行き届き、これまでとは違ったやり方で藩の倹約や新たな徴税方法を次々に生み出します。

ざっと一部を挙げますと……。

・足軽の勤務形態を変更し、人件費や訓練用の弾薬を節約する

・城内の落ち葉や馬糞を百姓に下げ渡し、掃除人の給料を削減して、百姓から馬の飼料を安く買った

・規定よりも安い米を藩士に支給し、人件費を削減

・大坂に使者を派遣し、蔵元商人に借金させた

・日雇人の仕事に身分の低い小者を使役して給料を削減した

・犀川と浅野川を工事して、洪水防止と船の通行を改善

・八田潟の干拓で耕作地を拡大する

・運上取り立て所を設置して、税金を徴収

いずれも金額は小さいながら地に足ついた政策に見えますよね。

しかし、あまりにもデカい借金の前では焼け石に水であり、財政悪化の全面解決までには至りません。

むろん、事態に“対応する”という一歩を踏み進めただけ素晴らしい。

吉徳としてもこの結果に満足していたようで、伝蔵を昇進させまくり、18年で17回も加増。

こうなると、彼を気に食わないのが、代々加賀藩に仕えている家老たちです。

要は伝蔵も、大河ドラマ『べらぼう』の田沼意次と似たような状況になっていったんですね。

田沼意次/wikipediaより引用

ちなみに天明7年10月2日(1787年11月11日)は、田沼意次の所領が幕府に没収された日でもあります。

加賀騒動とは関係ありませんが、豆としてお納めいただければ。

 


家老たちから反感を買い……

しかし、大槻伝蔵にも悪い面はありました。

・加増されたのをいいことに豪奢な屋敷を建造

・身分の低い者でも近づける

・吉徳を屋敷に招いて派手なお遊び

出る杭は打たれる――まさにそんな状況の中にあって、しかも伝蔵はさらにマズい手を打ってしまいます。

城にあった軍用銀を吹き替えて流通に回してしまったのです。

金沢城址公園・五十間長屋の夜景

金沢城址公園・五十間長屋の夜景

これは文字通り、戦に備えた備蓄金だったのですが、泰平の世では戦も起きないし、ただ単に寝かせておくなら今こそ有効に使うべきだろうと、伝蔵も考えたのでしょう。

しかし家老たちには「不届き者め!」としか見えません。

伝蔵としては藩主の吉徳を味方につけているわけですから、事前に説得工作をしてもらったりすればいいのに、むしろ怒らせたかったのか?とすら思えてきます。

あるいは伝蔵が、表向きだけでも「質素倹約の慎ましい態度」にして、家老のご機嫌を取っていたら結果は異なっていたでしょう。

家老たちにしても「伝蔵憎し!」の一点張りで、何ら有効的な代替案を出せていません。

これじゃあ単なる老害です。

伝蔵の功績を認めながら、普段の行状だけを藩主・吉徳に注意してもらえばいいのに……まぁ、家老たちも怒りに支配されていて冷静な判断力を完全に失っておりますよね。

あるいは吉徳自体が、伝蔵や家老たちから信頼されてなかったとか?

なんせ享保十七年(1732年)に虫害で米が不作となったとき、数年に渡って百姓一揆が頻発。

吉徳は、家老たちの反発を買っていました。そして……。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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