前田宗辰の肖像画

加賀騒動に関わりのある藩主の一人・前田宗辰/wikipediaより引用

江戸時代

加賀騒動の顛末|百万石の加賀藩で“藩主の暗殺未遂事件”が起きていた

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あらぬ疑いをかけられる

財政改革を推し進めねばならない場面で、家臣たちが対立してしまった加賀藩。

延長二年(1745年)、事態は急激に動き始めます。

藩主の前田吉徳が脚気で亡くなると、後ろ盾のいない伝蔵は、蟄居を命じられてしまいます。

理由はこう。

「伝蔵の看病不行き届きのせいで藩主様が亡くなられた!」

しかも悪いことは続くもので、今度は前田吉徳の後を継いだ前田宗辰が急死してしまい、これも「伝蔵が暗殺したんだ!」と疑われてしまいます。

前田宗辰の肖像画

前田宗辰/wikipediaより引用

結果、寛延元年(1748年)4月、越中・五箇山へ流罪となってしまうのです。

しかーし!

家老たちの怒りはまだまだ収まりません。

同じく寛延元年の夏、江戸の加賀藩邸で茶釜に毒が混入し、吉徳の正室・浄珠院と前田宗辰の後を継いだ前田重煕(しげひろ)が暗殺されかけるという事件が起きました。

この未遂事件では、吉徳の側室だった真如院が疑われると、その老女・浅尾と共に実行犯とされ、二人とも処罰されています。

しかも「真如院と伝蔵が密通しており、重煕暗殺未遂もこの二人が企てたものだ」とみなされました。

伝蔵からの書状が多数見つかったそうで……あまりにも急で出来すぎた展開で、露骨なまでに怪しいっすな。

それでも、二重三重に疑われた伝蔵は追い詰められ、寛延元年(1748年) 9月に自害。

真如院は本人の希望によって寛延二年(1749年)2月に絞殺され、浅尾は10月に殺害されました。

真如院の男子二人も金沢で幽閉され、10年ほど後に亡くなっています。

この件の関係者かつ犯人側と目された人々がいなくなった時点で、騒動はピッタリ止んでいます。

なんとも気味の悪い話で……。

 


各所でネタにされた加賀騒動

加賀騒動は、騒動だけで終わりません。

・舞台が百万石という大藩だったこと

・新興家臣vs家老たちというわかりやすい構図

・不義密通と後継者争いまで絡むなんて!

という、あまりにも美味しいネタが揃っていたもので。

案の定、歌舞伎などのフィクションで演じられ、かなり脚色されて世間へ知れ渡っていきました。

江戸時代は、幕府によって様々な規制が設けられ、そのたびに著者や演者たちは抜け穴を探し、創作物を作っています。

それは大河ドラマ『べらぼう』でも散々描かれてきましたね。

劇中では取り上げられませんでしたが、加賀騒動も人気を博した事件の一つ。

作品によっては浅尾への蛇責めなどが加わり、おどろおどろしく仕立てられたものが多々ありまして、とりわけ『加賀見山旧錦絵(かがみやま)』という作品は大好評だったようです。

中身は、半分オリジナル、半分加賀騒動といった内容で、

「とある藩邸で起きた大名の妻同士の争いにより、一方が自害した後、その侍女が仇討ちする」

というストーリーです。

これは「女の忠臣蔵」とまで呼ばれ、武家の女中が宿下りする際に見るのにふさわしいとされ、毎年3月に上演されたとか。

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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