北条宗時

北条宗時の墓(静岡県田方郡函南町大竹)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義時の兄・北条宗時はどんな武将だった?鎌倉殿の13人片岡愛之助

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父と弟とは別れ 祖父の軍勢に囲まれ

北条父子は頼朝とはぐれ、時政と義時は箱根を経由して甲斐へ逃れることにしました。

しかし宗時は桑原に降り、平井郷に出たところで、なんたることか、祖父である伊東祐親の軍勢に囲まれてしまいます。

そして小平井久重に弓で討たれたのでした。

あまりにも呆気ない最期です。

なぜ宗時は父や弟と別れたのか? ただの偶発的なものなのか? それとも一族で誰かが生き残る確率を高めようとした結果なのか?

理由は不明で想像するしかありません。

一方、宗時と別れた時政と義時は、生き延びることができ、源氏や北条の捲土重来はそこから始まります。

父と弟が疾風怒濤の活躍を遂げた一方、宗時の墓は静岡県函南町・函南駅のそばにあり、今ではひっそりと地味な佇まいをしています。

大河ドラマに役割があるとすれば、こうした墓跡を参拝する人が増えることかもしれません。

宗時を思い、合掌する人が増える。そのことそのものが追悼に……。

 

宗時の描写には意味がある

ドラマ序盤の派手な活躍の割に、退場が早い北条宗時。

彼がいなくなることで見えてくることもありそうです。

源頼朝にせよ北条義時にせよ、史実では親族仲間に対して容赦ない粛清を繰り返し、もしも宗時が長く生きていたら骨肉の争いが激化した可能性もある。

なまじ志半ばで散ったが故に、儚さを残して散ったように思えるのです。

宗時の影は薄い。

それは否定できませんが、この兄が斃れたからこそ、あの北条義時が立ち上がってきたのだから、宗時の死も必然だったかのように思えてしまう。

ドラマでは、政子と頼朝の燃え上がる恋だけでも、北条が源氏につく理由として説明はつきます。

それでも『鎌倉殿の13人』は、前のめりになって

「平家をぶっ潰す!」

と言い切る宗時を出してきました。

その決意は、計画性がなく、ずさんで猪突猛進で、弟の義時は騒動に巻き込まれますが、そうした宗時の暑苦しさも制作側の意図なのでしょう。

当時の武士たちは、こんな(宗時のような)嫡男ではよくない――なんて言い出さない。

彼が死を遂げるまで後継者として扱うならば、その資質には問題がなく、当時の規範を示す意味があります。

兄・宗時と弟・義時を並べ、見えてくるものがあるのでしょう。

後に、時政や義時らが、宗時を思い出し、その死を悼む描写が出てきたとき、作り手の伝えたい姿が浮かんでくる気がしてなりません。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
安田元久『北条義時 』(→amazon

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