大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の平清盛を覚えていらっしゃいますか?
有無を言わせない松平健さんの眼力、凄まじい迫力でした。
周囲にいる者たちは、右往左往しながら命令を聞くしかありませんでしたが、本稿で注目したいのは、その中にいた一人。
元暦2年(1185年)6月21日に亡くなった平家の跡取り――ドラマでは小泉孝太郎さんが演じていた平宗盛です。
史実においては清盛の継室(後妻)の長男で、実力が抜けていたワケではなく、兄の重盛が亡くなったから嫡男の座が回ってくるような微妙なポジの方でして。
その後、平家が滅亡に追い込まれるからなのか、『平家物語』でも酷い言われようだったりします。
いったい平宗盛とはどんな武士だったのか。
生涯を振り返ってみましょう。
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生まれは微妙だが、平重盛とは割と仲良くやっていた
久安三年(1147年)。
平宗盛は、清盛の継室(後妻)の長男というビミョーな立場に生まれました。
清盛にとっては最初の正室の子である長兄・重盛の出来が良かったので、嫡男ともいいきれず、かといって十把ひとからげにするにも体裁が悪いという立ち位置だったのです。
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とはいえ、重盛とは10歳離れていたので、あまりぶつかり合うことはありませんでした。
もっと歳が近かったら血で血を洗うような状況になっていたかもしれませんね。
若い頃は重盛と代わりばんこのような形で出世していき、仁安二年(1167年)、清盛が太政大臣の位を降りて隠居してからは、跡を継いだ重盛の次に宗盛が位置します。
また、宗盛は母・時子の異母妹である滋子(後白河法皇妃・建春門院)に仕えていたので朝廷とのパイプもあり、滋子の同母妹・清子を妻に迎えていました。
これまたヘタに能力がある人だったら野心を抱きそうな構図ですね。
清盛のクーデターの後始末を……
相変わらず重盛との密かな官位競争は続いていながら、重盛が清盛の後継者であることが明確になったため、感情的な面で二人の関係が悪化することはなかったようです。
しかし、このタイミングで滋子が亡くなったため、清盛と後白河法皇の関係が悪化。
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平宗盛は上記の通り、滋子に仕えていたこともあって、後白河法皇と比較的良い関係を保っており、重盛と共に仲裁に努めた事もありました。
この辺から宗盛が貧乏くじを引き続けているような気がします。
まず、後白河法皇の子・高倉天皇に嫁いでいた妹・徳子が懐妊したとき、宗盛の妻・清子が乳母に選ばれたのですが、その後、清子が急死してしまいました。
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夫婦に特別なエピソードはないものの、宗盛は自ら辞職するほど悲しんだそうですから、よほど仲の良い関係だったのでしょう。
宗盛はこれ以降、自分からは政治に関わろうとはしなくなります。
しかし、そうも言ってられなくなりました。
長兄の重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったのです。
おまけに重盛の領地を後白河法皇が強引に召し上げたことが発端となり、清盛は法皇に対しクーデターを敢行。
朝廷のお偉いさんを平家と親しい人ばかりに入れ替え、後白河法皇を幽閉して福原に引き上げるという暴挙を働きました。
このときの後始末を押し付けられたのが宗盛さん……。
しかしまだ政治経験が豊富とはいえない状態でやらされたので、結局は清盛が再び処置をしています。二度手間じゃねーか。
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