吾妻鏡

吾妻鏡(江戸時代の写本)/国立国会図書館蔵

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いったい何を基に描かれているか?

というと、最も影響力の強いのが『吾妻鏡』でしょう。

鎌倉時代を記した書物ですと『愚管抄』や『平家物語』あるいは公家の日記などもありますが、それでも『吾妻鏡』が注目されるのは、

「武士が初めて、自ら作った歴史の記録」

という大きな特徴を有しているからであります。

ただし、何事も最初のトライには失敗がつきもの。

吾妻鏡は大きな存在意義を持っていますが、同時にいくつかの欠点も有しておりました。

今回はこの書物の成り立ちについて、少し詳しくみていきましょう。

 

吾妻鏡は東鑑とも表記

まずは「吾妻鏡」というタイトルの背景からいきましょう。

実は「東鑑」とも書きます。

しかし、他の鏡物(大鏡・今鏡・水鏡・増鏡)と区別しやすいからなのか。

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三文字表記のほうが多い気がしますね。

吾妻鏡(東鑑)・1661年江戸時代の写本/国立国会図書館蔵

「吾妻」も「東」も、東日本のこと。

その由来は、鎌倉時代からしてもはるか昔、神代の時代にありました。

日本神話の英雄として名高い、かのヤマトタケルが、東国遠征の際、海の神に邪魔されて船が進めなくなったことがあります。

このとき、同行していた妃・弟橘比売(おとたちばなひめ)が自ら生贄となって海を鎮め、ヤマトタケルは先に進むことができました。

ヤマトタケルは彼女のことを本当に深く愛していたようで、このことを後々まで悔やんだとされています。

そして東国の神々平定が終わった後、とある山から東国を見渡して

「吾妻はや」(=わが妻よ)

とつぶやいた……のだそうで。

それから、東日本を「吾妻」=「東」と呼ぶようになった、とされています。

京都の貴族たちは、後々に至るまで東日本を「野蛮人だらけの地域」とみなしていましたが、その名の由来は、かなりの歴史を持っていたんですね。

 

鎌倉幕府の公式歴史書

では、吾妻鏡そのもののお話へ移りましょう。

この本は、ひとことで言うと「鎌倉幕府の公式歴史書」です。

しかし、元寇のドタバタで編纂が中断し、その後はそれどころじゃなくなって放り出されてしまいました。

元寇
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結果、「日本史上初の本土侵略」という大事件である元寇についての記録がすっぽ抜ける……という、歴史家涙目な事態にもなっています。

まあ、当時の武士にどのくらい「記録をつけることの重要さ」が理解できていたのかも謎ですし、仕方のない面もありますね。

そんなわけで、吾妻鏡は治承四年(1180年)の以仁王の挙兵に始まり、文永三年(1266年)に六代将軍・宗尊親王が京都に帰ったところで終わっています。

そのうち真ん中の12年ほどが抜けているのですが……途中で散逸したのか、元々ないのかはわかっていません。

また、全部で何巻あったのかもハッキリしていないようです。

今後見つかったら世紀の大発見でしょう。

形式は、時系列順に出来事を記していく「編年体」となっています。

近い時代に成立したと考えられる「水鏡」が編年体ですので、それを手本にしたのかもしれません。

水鏡の成立から吾妻鏡の成立まで、だいたい100年ぐらい経っていますから、幕府の方でも水鏡の写本は手に入ったでしょうし。

ちなみに、これは「元寇が終わって20~30年後くらいに吾妻鏡が成立した」ということにもなります。

鎌倉幕府の滅亡まであと30年あるかないか、というタイミング。

この頃は恩賞問題に加え、御家人と御内人の対立が激化していたあたりですから、吾妻鏡の編纂が続けられなくなったのもむべなるかな、という感じがしますね。

 

「幕府の記録」だが公家の日記等も参考に

吾妻鏡の記述のうち、鎌倉周辺で起きたことは、直接記録したと思われます。

しかし、それ以外の地域で起きたこと、例えば朝廷の支配圏である近畿や、それより西の地域については、あまり書かれていません。

そうした事情に伴い、御家人でない武士のことや、公家に関する記述もごくわずかです。

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吾妻鏡はあくまで「幕府の記録」であって、「鎌倉時代の日本の記録」ではない……というわけです。

参考資料としては、公家の日記や寺社の記録、歴史物語も使われました。

例えば、

九条兼実の日記である『玉葉』

・藤原定家の日記『明月記』

・延暦寺の記録『天台座主記』

・『平家物語』とその異本とされる『源平盛衰記』

などです。

これらについては全てが引用されたわけではなく、幕府と関わりの深いところだけが使われたと考えられています。

一つ例を挙げますと、藤原定家の『明月記』について。

本日記には、三代将軍・源実朝が藤原定家の歌の弟子だったことから使われたとされているのですが、この師弟関係があった頃の記述しか使われていません。

藤原定家/wikipediaより引用

定家が当時屈指の歌人であるためか、明月記には難解な文が多いので、吾妻鏡を編纂した武士が理解しにくかった可能性もありますね。

明月記は定家の自筆本が残っていて、文化遺産オンラインで一部を見ることができるのですが、結構クセが強い感のある字ですし。

もしくは、幕府側が手に入れた写本が粗雑なものだった……なんてこともあったのかもしれません。

「成績がいい人のノートを借りたら、意外と悪筆で読めなかった」みたいな?

歴史を後世から見ていると忘れがちですが、公家も武士も人間ですからね。

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