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後ろ盾を失ってからは反発を受けて
当代きっての実力者から支援を受けた文覚に対しては誰もがひれ伏する――藤原定家は日記『明月記』でそう記しました。
しかし、その威光は後援者あってのもの。
後ろ盾である後白河法皇と源頼朝の死後、状況は一変します。
後鳥羽上皇や朝廷は、文覚に対して厳しい態度で臨みました。
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史実の後鳥羽上皇はマッチョな武闘派だった?鎌倉殿の13人尾上松也
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なぜなら文覚はあまりに強引な性格であり、寄進を迫る手法は多くの人々から反発されていたのです。
正治元年(1199年)には佐渡国へ流され、さらに建仁3年(1203年)には対馬国へ流刑。
そしてこの歳、鎮西で亡くなったと伝えられています。
享年65。
強引な性格が歴史を変えた
文覚を調べてみると、どうしても人格に問題があるように思えてなりません。
袈裟御前の伝説がどこまで事実なのか。
国史大辞典では「全て事実とは認めがたいが、何らかの恋愛トラブルが出家の動機になった」と記しており、良からぬ事件があった可能性は高そうです。
さらに、いかに動機が立派であろうと、勧進を強要するため後白河法皇の御所まで押しかけるのもやりすぎでしょう。
当時の記録でも、その粗暴さを嘆くだけでなく、文覚が学問を嫌っていたり、人の悪口を言ったりする様子が記されています。
僧侶というよりもはや猪武者なのです。
ただ……そもそも人妻へのストーキングが厳禁だったら、悲劇は起きず、世に出ることもなかったかもしれませんね。
北条義時の息子・北条泰時が制定した『御成敗式目』には、不倫禁止、路上女性拉致禁止が盛り込まれました。
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北条泰時はなぜ『御成敗式目』を作ったか?それはどんな法律だった?
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人間の意識の変革を見るという意味では、貴重な逸話と言えます。
ドラマの中で文覚を見たら、気分が悪くなるかもしれませんが、それが当時の“悲劇”であったということでしょう。

袈裟御前とは知らず殺しにやってきた遠藤盛遠(後の文覚)/wikipediaより引用
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最後に。
岐阜県中津川市には、なめくじ祭りという奇妙な行事があります。文覚の墓に出没したなめくじを祭るのです。
なぜ、なめくじを?
なんでも出家して罪を償った文覚を慕い、なめくじとなった袈裟御前が墓を這うのだとか。
ストーカー殺人の被害者である美女が、死後なめくじとなって、加害者を許す……って、なかなかシュールな由来ですよね。
大河ゆかりの祭りとして説明するには難しそうですが、祭りの日は屋台や夜店が並び賑わうそうです。
文覚に思いを馳せつつ、めぐってみるのも一興でしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon)
他