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【板額御前】
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女性の身たりといえども 板額の奮戦
盛綱の手にかかればひとひねり――そう思われた鳥坂城の戦いは、意外にも幕府軍が大苦戦を強いられることになる。
緒戦から名だたる猛将たちが板額の弓矢に射倒されてしまったのだ。
鳥坂城の矢倉門に立った板額の奮闘ぶりを、吾妻鑑の編纂者は次のように記している。
童形の如く髪を上げせしめ、腹巻きを着し矢倉の上に居て、襲い致すの輩を射るに、中たる者死なずと云うこと莫し。
正面からまともに攻めても板額を討ち取れなかった攻城軍。
弓箭の眉目と讃えられた信濃の豪族・藤澤清親に命じて、背後の山から板額の足を射て、生け捕りにした。
このとき城内に小太郎資盛の姿はなかった。
板額の奮戦は、まだ若い嫡子資盛を城外へ脱出させるための時間稼ぎだったのだろう。
母性の成せる戦略に違いなかった。そして……。
敵をも感服させた堂々たる態度
捕らえられ、鎌倉に護送された板額は、二代将軍・源頼家の御前に引き出される。
まだ矢傷の癒えていない板額だったが、ここでも吾妻鑑の編纂者を感服させている。
その座の中央を通り、簾下に進み居る。この間聊かも諂う気無し。凡そ勇力の丈夫に比すると雖も、敢えて対揚を恥ずべからずの粧いなり。
板額の態度には、いささかもこびへつらうところがなく、屈強な坂東武者たちと比べてみても、決して引けを取らない様子であったと記されている。
しかも彼女の容姿は「顔色花のごとし」。
白楽天の詩にうたわれた陵園の宮女のように美しかったと編纂者は強調している。
この場に居合わせた甲斐源氏の浅利与一義遠は、板額の堂々たる態度に深く感じ入り、ぜひとも彼女を妻にしたいと将軍に直訴した。
与一は【壇ノ浦の戦い】で名をはせた英雄であり、四町(約440メートル)先の敵を射倒したという、遠矢の名手である。
頼家が与一の願いを聞き入れたことで、板額が謀反人としてとがめを受ける事態は避けられた。
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