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【吾妻鏡】
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「幕府の記録」だが公家の日記等も参考に
吾妻鏡の記述のうち、鎌倉周辺で起きたことは、直接記録したと思われます。
しかし、それ以外の地域で起きたこと、例えば朝廷の支配圏である近畿や、それより西の地域については、あまり書かれていません。
そうした事情に伴い、御家人でない武士のことや、公家に関する記述もごくわずかです。
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吾妻鏡はあくまで「幕府の記録」であって、「鎌倉時代の日本の記録」ではない……というわけです。
参考資料としては、公家の日記や寺社の記録、歴史物語も使われました。
例えば、
などです。
これらについては全てが引用されたわけではなく、幕府と関わりの深いところだけが使われたと考えられています。
一つ例を挙げますと、藤原定家の『明月記』について。
本日記には、三代将軍・源実朝が藤原定家の歌の弟子だったことから使われたとされているのですが、この師弟関係があった頃の記述しか使われていません。
定家が当時屈指の歌人であるためか、明月記には難解な文が多いので、吾妻鏡を編纂した武士が理解しにくかった可能性もありますね。
明月記は定家の自筆本が残っていて、文化遺産オンラインで一部を見ることができるのですが、結構クセが強い感のある字ですし。
もしくは、幕府側が手に入れた写本が粗雑なものだった……なんてこともあったのかもしれません。
「成績がいい人のノートを借りたら、意外と悪筆で読めなかった」みたいな?
歴史を後世から見ていると忘れがちですが、公家も武士も人間ですからね。
年月の記載ミスと隠蔽工作の形跡
吾妻鏡には大きく二つの欠点があります。
一つは、誤記と思しき年月の記載ミスがあることです。
歴史書としては致命的ですが、当時の武士はやっと文字の読み書きができる人が多数派になったような時期なので、素でやってる可能性もありますね。
二つめは、北条氏にとって都合の悪い点を隠蔽した形跡があるということです。
これも歴史書としてはかなりの欠点ですが、いかんせん他の記録が乏しいというか、まとまっていないので、吾妻鏡以外に基礎史料になりそうなものがない……というのが正直なところのようです。
元寇が終わってから鎌倉幕府滅亡までの経緯について、教科書では
「恩賞がなかったので幕府に激怒した御家人がブチ切れました」(超訳)
という感じにすっ飛ばされているのは、おそらくこのためだと思われます。
討幕に関わった武士個々人や、地域の歴史を調べていくと、多少わかるんですけども。
教科書の編纂にも膨大な時間がかかりますから、鎌倉時代の終盤にだけ手間を掛けているわけにもいかない事情がありそうです。
そんなわけで、吾妻鏡は「武士が自らの歴史を自らの手で記した、初めての長期記録」という点に意義があるということになるのです。
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