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【四条畷の戦い】
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かへらじと かねて思へば 梓弓
このころになるともう完全に皇室が真っ二つになってしまっているので「朝廷」という表現だとビミョーに意味がズレますが、やたらと用語を増やしてもややこしくなるだけなのでとりあえずこのままでいきます。
正行は後醍醐天皇の次に即位した南朝側の天皇・後村上天皇からかなり信頼されていたようで、
「お前がこの前助けてくれたウチの侍女をあげるから、命を捨てるようなことはするな」
とも言われています。
しかし、父と同じく絶対に勝てないことがわかっていた正行はどちらも断り、覚悟が揺るがないことを歌で表しました。
「かへらじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
【意訳】生きて帰ってくることができないのはわかっています。だから、ここに我らの名を書きとめておこう
梓弓は多くの場合枕詞として使われる単語です。
神事に使われる弓のことで、この歌を詠んだのが後醍醐天皇の御廟だったことや、武士らしさを出すため、そして「いる=射る・居る」に繋げるために入れたのでしょう。
意味は難しくありませんが、こうした技巧を入れた歌が詠めるということは、正行には文学的なセンスもあったのかもしれません。
多勢に無勢で散る
正行と正時は、ついに【四条畷の戦い】に挑みました。
合戦そのものの記録ははっきり残っていませんが、一説には二十倍以上もの兵力差があったとか。
しかも足利側の大将は高師直(こうのもろなお)。室町幕府のナンバー2で、あれこれ悩みがちな尊氏を支えてきた実力者です。
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予想していたこととはいえ、なにもかもケタ違いなこの戦は当然のごとく正行たちが敗れます。
そしてやはり父と同じく、敵に殺されるよりはと兄弟刺し違えて死んでいったのでした。
かつて尊氏は「正成は立派な武士だから、首を返してやれ」と言って本当に首を送り届けてきましたから、自分達の首も確認されることはあっても辱められることはないと考えたのかもしれません。
その後、正行の首や胴体は知己の僧侶や地元民によって手厚く葬られたようなので、やはり首を晒してそのまんまということはなかったのでしょう。
祟りも起きていないようですし。
「罪を憎んで人を憎まず」
正行の忠節ぶりには敵だった二代将軍・足利義詮も心を動かされたようです。
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彼は「死んだら正行の隣に墓を建ててほしい」と言い残しています。尊氏涙目。
義詮は楠木家の末弟・正儀に京都から追い出されたことがあるのですが、それでもこう言ったということは本当に尊敬していたんでしょうね。
ちょっと違いますが「罪を憎んで人を憎まず」にも通じるものがあるように思います。
次男・正時については、兄と同じく四條畷で戦死しましたが、まともな記録が残っていないようです。
中には存在すら忘れられている場合もあったりして、これはこれで泣けてきますね……。
もしかすると、影のように兄に従うような人だったのかもしれません。
今後彼に関する史料が見つかれば良いのですが。
四條畷の戦いの後、三男の正儀が楠木家の家督を継ぎました。
南朝の先鋒武将となった正儀は父や兄と同じく戦上手でしたが、現実路線を行くタイプで南朝と北朝の和睦交渉を推し進めました。
一時は北朝方に投降し、後に南朝方に帰参し元中6年/康応元年(1389年)頃に討死したと伝わります。
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【参考】
国史大辞典