楠木正成

楠木正成/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

戦術の天才・楠木正成には実際どんな功績があるのか?なぜ最終的に尊氏に敗れた?

南北朝時代の武将といえば?」

そう尋ねたら、おそらくトップの人気を争うであろう楠木正成

・皇居前(東京都千代田区)

・湊川公園(兵庫県神戸市)

・観心寺(大阪府河内長野市)

というスポットに騎馬像が立てられていて、いずれも甲乙つけ難い凛々しき姿を誇っています。

しかし、その勇名に反し、正成は謎多き武士でもあります。

なにせ歴史上に現れるのはたったの5年。

しかも大軍を引き連れて鮮やかに指揮をする武将ではなく、小勢力で手を変え品を変え、ゲリラ戦なども駆使しながら敵を悩ませる――そんな変化球タイプの合戦を得意とします。

それでも新田義貞北畠顕家など、同じ南朝方の有名武将と比べると人気は頭一つ抜けていて、長く日本人に愛されてきました。

なぜ正成は、かくも我々を魅了し続けるのか。

延元元年/建武3年(1336年)5月25日はその命日。

楠木正成の生涯と事績を振り返ってみましょう。

楠木正成/Wikipediaより引用

 

謎多きヒーロー・正成

楠木正成の生涯を振り返ろう――といっても、前述の通り、その生涯は謎に包まれています。

楠木氏自体の記録がほとんどなく、どの説も推測の域を出ない。

近年では「先祖は現在の静岡市清水区にあった楠木村の者ではないか」という説もあります。

あるいは、ご先祖が大きな楠の近くに住んだとか、楠の木の近くで戦功を上げたとか、そういうところから名字をつけたのかもしれません。

彼が鎌倉幕府軍を相手に快勝をあげる【千早城の戦い】の頃に、京都ではこんな歌が流行っていたとも言います。

楠の 木の根は 鎌倉になるものを 枝を切りにと 何上るらん

【意訳】楠木氏は元々鎌倉出身なのに、(幕府軍は)なんでわざわざそれを切りに上方へやってくるのか

当時の京都市民にとって「楠木は御家人だ」という認識が広がっていたのかもしれませんね。

ともかく生い立ちに関しては全くの謎だらけ。

少なくとも御家人だと誤解されるぐらいの郎党と財産を有していた家だったのでしょう。

あるいは当時は、貴族と主従関係を結んでいた武士も珍しくなかったので、楠木氏もそういう家だった可能性も否定できません。

正成が後醍醐天皇と接触したのは、親政の始まった元亨元年(1321年)頃、公家や僧侶を通して宮廷に近づいたのでは?と推測されています。

その時期、京都周辺では寺社関係の問題が多発しており、鎌倉幕府の機関である「六波羅探題」は後手後手に回りがちだった時期。

宮廷も一般民衆も「自分たちを守ってくれる武士はどこかにいないだろうか」と思っていたことでしょう。

そんな中で楠木氏に白羽の矢が立ったとしても、不自然ではありません。

「後醍醐天皇が”大きな木が南に生えている夢を見た”ので、これは”木+南=楠”という意味ではないかと思い、楠という武士を探させたところ、正成が見つかって召し出された」

という伝説は、この頃のものです。

もちろん実際に夢を見たかどうかはわかりません。

しかし「夢=神仏のお告げ」という価値観だった時代ですから、後醍醐天皇はもう少し正成を大切にしても良さそうなものです。

※以下は後醍醐天皇の関連記事となります

後醍醐天皇
後醍醐天皇の何がどう悪かった?そしてドタバタの南北朝動乱始まる

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赤坂城を奇計で脱出

それまで楠木正成はどう暮らしていたか?

というと和泉国若松荘で押し入りやら不法占拠やらをして年貢などを掠めとり、領主の臨川寺からは「悪党」とされていたそうです。

悪党とは、鎌倉時代中期以降、北条氏や得宗被官などに反発して富裕層を襲撃していた元御家人もしくは僧侶など。

もし仮に正成が悪党として動く前に後醍醐天皇と接触していた場合は、天皇方の軍のため兵糧を調達していたのかもしれませんね。

強奪しなくていいじゃないか……とは思いますが、正成の頭脳からすると「秘密裏に事を進めるために悪党を装った」という可能性も……考えすぎか。

元弘元年(1331年)、京都を脱出した後醍醐天皇は、笠置山に陣を敷きました。

しかし、幕府軍に落とされて囚われの身になり、かろうじて脱出した護良親王は正成と合流して赤坂城に立てこもります。

正成は元弘元年(1331年)9月から一ヶ月ほど、赤坂城で様々な計を用いて幕府軍を悩ませていました。

赤坂城の戦いを描いた『大楠公一代絵巻』/wikipediaより引用

それでも後醍醐天皇が捕われたとなると戦略を変えなければなりません。

眼前の幕府軍を相手にするより、とにかく生き残るのが先決。

そこで、戦死した兵2〜30人の遺体を穴に入れて焼き、「正成もその中にいる」と見せかけて本人は落ち延び、同時に護良親王も脱出すると二人はしばらく身を潜めました。

幕府軍は、正成の期待通り「敗北を恥じて自害したに違いない」と希望的観測を持ち、引き揚げていきました。

この勘違いを強く信じ続けさせるため、正成や護良親王はしばらく消息を絶つことにします。

一方、後醍醐天皇は元弘二年(1332年)3月、流刑先である隠岐に向かいました。

正成は隠岐との連絡を保っていたらしく、その間に「左衛門尉」の官職を受けていたようです。

官職を授けたのは護良親王という説もありますが、護良親王と正成は密接な関係なのか?というとそうでもないので、実際は後醍醐天皇ですかね。

「左衛門尉」とは、元々内裏を警護する「衛門府」の役職名であり、この時期は有名無実化していました。

字面とかつての職務内容から武家に好まれ、正成以外にも多くの武士に与えられるようになっていきます。

正成に対しては「今後は皇族を守る役目を果たしてくれよ」という後醍醐天皇や護良親王の願望が含まれていたのかもしれません。

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