2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎。
寛延3年(1750年)に生まれ、寛政9年(1797年)に亡くなった、江戸の版元であり、昨年の『光る君へ』に続き大河ドラマの主役としてはあまり見慣れないタイプの人物かもしれません。
だからこそ、NHKからは特別な意欲も感じます。
そもそも『べらぼう』という感嘆詞がタイトルになっている時点で、なにやら野心を感じさせるじゃないですか。
パッと見では何やら意味がわからない、しかし力強さも感じさせるこの音の響きからして作り手の気合いを感じますが、現時点でなぜそこまで言い切れるのか。
今年の大河ドラマはどこがどう期待できるのか?
これまで公式発表されてきた状況や素材などから、毎年恒例の直前予想をお送りしたいと思います!
実は見た瞬間から、我々は問われていることがある
実際にドラマが始まる前に、徐々に公開されてきた『べらぼう』の映像を見て、皆さんはどう思われましたか?
実はこの時点で、何か試されている気がします。
「なんか“昔見た時代劇”ぽいなぁ」
ある程度年齢層が上であれば、こういう反応は想像できます。
今ではほぼNHKでしか放送しない時代劇ですが、かつては民放の定番枠。
こうした番組は時代考証が雑であり、フルカラー浮世絵が残る江戸中後期の風俗で再現されます。そうしたテレビ時代劇の記憶を思い出すわけです。
「歴史総合で習う時代だ」
一方、2022年以降の高等学校新科目「歴史総合」を習い、かつ時代劇のイメージは薄い世代は、こう思ってもおかしくはありません。
「歴史総合」は18世紀以降の近代史を中心に扱います。
この反応からは、歴史そのものの捉え方も見えてきます。
ここでいう「時代劇」のイメージとは、古臭く、停滞していて、明治時代以降の文明の光を浴びていないという印象が付きまといます。
一方で「歴史総合」でみていく18世紀とは、近代へ向けて歴史が変わりゆくタイミングということになる。
このことは、こんな問いかけにもつながります。
「幕末とは、いつから始まるのだろうか?」
この問いかけに対し、そんなものは簡単だ、「ペリーの黒船来航」と答えられるのであればある意味シンプル極まりない話といえます。
それこそ「歴史総合」目線で考えると、難しくなってきます。
実は史上初となる「歴史総合」対応大河ドラマ
幕府もそろそろ、こういうことは起きるだろうと思い、消極的とはいえ対策はとっていた。
では幕府は海外列強の脅威をいつから感じていたか?
その線引きが難しい。
そんなにきっぱりと言い切れるものなのかどうか?
遡ってゆけば、【田沼時代】にはその兆しがあったのではないか? そう考えることもできなくはありません。
『べらぼう』とは、そんな「歴史総合」導入以降に作られた、その学習にも使える記念すべき大河ドラマといえます。
現役高校生ではない世代こそ、むしろここから理解を深め、近代史認識を改めたい――近年でも随一の教育的意義が高い題材といえます。
戦国幕末ではないからつまらない?
そんなことはありません。むしろどうして今までやらなかったのか、不思議なくらい興味深い時代といえる。
思えば2018年新春時代劇『風雲児たち』を見た後、満足感と共にこの時代の大河ドラマはいつになれば実現できるのかと思ったものです。
あれから十年待たずに実現したのは、実に嬉しい限りです。
ほんとうにビジネスに役立つ大河ドラマ
かつて大河ドラマは、ビジネスに役立つという触れ込みがありました。
「戦国武将に学ぶビジネスの知恵」
「維新志士に学ぶ決断力」
定番の戦国幕末ものと絡めて、こんな本や記事のタイトルはよく見かけたものです。プロフィールの尊敬する人物の欄に「織田信長」と書く人も多いものですね。
「令和の坂本龍馬を目指します!」
こんなフレーズもみかけます。
しかし冷静に考えてみましょう。
大河ドラマって、そんなにビジネスに役立ちますか?
現代人はいくら取引先に怒ろうと、その社長を追い詰めて、その骸骨で酒を飲むような真似はできません。薩摩ジゲン流で脳天を叩き割ることも、もちろんできないのです。
『鎌倉殿の13人』のように、レジャー中に不適切な部下を始末することもできない。
『光る君へ』のように、娘を有力者に次から次へと嫁がせることもできない。
少し考えてみれば当たり前ですが、時代が異なれば、成功のセオリーも違ってきます。
それでも大河ドラマがビジネスにおいて役立つとすれば、接待時に外さない話題のテーマに使えたあたりということです。
そうはいっても、令和となっては皆大河ドラマを見ているわけでもない。悩ましいところですね。
しかし、2025年大河ドラマはちがう。
蔦屋重三郎とその仲間たちのビジネスセンスは、今の世の中にも本当に通じるものもあります。
異業種とのコラボレーション。
ネットワークで頭角を表すことの重要性。コミュ力なしでは通用しない。
口コミによる評価で浸透を狙う。
事件があればすぐに飛びつく。
プロデュースしたクリエイターを売り出す。
炎上後のリカバリはどうする?
規制をすり抜ける策とは?
このように、彼の戦略は現代でも十分に通用するセンスがあるのです。
蔦重のためになるところは、それが毎度成功しているとも限らない点でもあります。
彼がどうして失敗してしまうのか?
その原因を考えることも、きっと役に立つことでしょう。
ビジネスに役立つという意味において、2025年大河ドラマは新境地に到達し得ます。
古のオタク魂を感じさせる大河ドラマ
2020年代、オタクカルチャーは日本に根付いたとされます。
今日の「オタク」とは、童顔でセクシーな美少女キャラクターと結びつけられやすいものです。
それだけならばまだしも、ミソジニー(女性嫌悪)や冷笑気質との親和性。ネットやSNSの価値観を絶対視する傾向まで併せ持つこともしばしばみられます。
しかし、万人がこの状況に危機感を募らせていないかというと、さにあらず。
「オタクとは、本来こういうものではなかったと思うんですよ……」
そんなぼやきも、私の耳にはしばしば入ってきます。
ここの言葉は、風間俊介さんの声ででも再生してください。
そう嘆く彼らは、少しでも話が脱線すると、自分が属するオタク分野のトリビアを長々と語ってきたりします。
それが相手にとって興味深いかどうかは二の次で、スイッチが入ると語り出してしまうような、いわば癖ですね。感じが悪いものではありません。宮崎駿さんや富野由悠季さんも、このタイプでしょう。
こうした自分が好きで、かつ、メジャーでもないものにのめり込む。
そういう「オールドオタク」からすれば、今の「オタク」はいかがなものかと苦言を呈したくなるところもある。それが2020年代であると思えます。
大河ドラマと何の関係があるのか。
そう突っ込まれそうですが、実は『べらぼう』からそんな古きオタクの気配が漂ってきていると感じるのです。
『べらぼう』チームは『麒麟がくる』や『大奥』と共通のスタッフ・キャストが多く、特徴も引き継いでいます。
同チームにはこだわりが強い、古きオタク魂を感じさせます。
『麒麟がくる』には、ベテラン声優を配役するという特徴があります。重厚な声のみならず、演技も光る渋さが特徴です。やや古いタイプのオタク心を刺激する気配りといえます。
そして男女逆転『大奥』は、原作者も、原作ファンも、心から納得できる出来に収めることができました。
そういう古きオタク魂が、『べらぼう』は情報解禁とともに漂ってきます。
版元の一人である、風間俊介さん扮する鶴屋喜右衛門が苦笑を浮かべつつ、
「これは売れません」
とPR動画で言ったとき、何か既視感がありました。
西村まさ彦さんの、西村屋与八の不機嫌そうな顔もまた、然り。
記憶の糸をたどっていくと、思い当たるものがあります。
ドクターマシリトです。
日本漫画界を代表する故鳥山明さんの作品『Dr.スランプ』の悪役ですね。陰気な顔をしたこのキャラクターは、鳥山さんの編集者であった鳥嶋和彦さんがモデルとされています。
「ボツ」
そうむすっとした顔でダメ出しをする鳥嶋さんに怒りを覚えた鳥山さんが、作中で憂さ晴らしとして出したキャラクター。かつての漫画家はこのように編集者をおちょくったものでした。
今からすれば信じ難いかもしれませんが、昭和の頃はアクの強い編集者武勇伝も明かされたものです。
漫画家本人もすごいけれども、その背後にはもっと強烈な編集者がいると都市伝説めいて語られるのは、往年の業界でした。
『べらぼう』番宣を見ていると、こうした姿が思い出されます。
主人公周辺の版元仲間からは、時に暴露され、またおちょくられた、冷酷でありながら鋭い判断を下す。そんな編集者の顔が見えてきます。
『べらぼう』は大河ドラマで初めての時代を扱う。
版元主人公ということも、異例中の異例である。とはいえ、初めて見たとは思えない。どこか既視感のある話に引き込まれ、懐かしさすら覚えるのではないか。そんな予感がします。
オタクは古かろうが比較的新しかろうが、二次元美女を好むことでは一致します。
『べらぼう』の世界観もそうで、どんな版元であろうと、吉原の美女や彼女たちを描いた絵や小説を売らねば食っていけないわけです。
顔をつきあわせつつ、どの美女がいいか、どういうシチュエーションがそそられるのか、真剣に語り合う場面に、今までの大河にはなかった没入感を覚える視聴者もいるかと思います。
推し活を扱う大河ドラマ
推し活に夢中な層も、既視感にあっと驚くことになるかもしれませんよ。
推し活に欠かせない、推しを示す色やモチーフは、実は江戸時代からあります。
歌舞伎役者に夢中になった江戸の女たちは、推しが好む色やパターンを身につけて主張したものです。
推しうちわの歴史にしてもそうで、当時から役者絵を貼り付けた団扇は定番商品です。
なんだ、私たちの大先輩は江戸時代からいたんだ! そう腑に落ちることでしょう。
考えてみれば当然と言えばそうなのですが、江戸時代中期の町人は、平安貴族や戦国武士より、ずっと私たちに近いんです。
そこに気付けば、沼に落ちます。
2025年はきっと、特性層にとってかつてない没入感のある大河ドラマになりますよ!
既婚女性が眉を落とした大河ドラマ
没入感だけではなく、オタクならではのディテールの細やかさも魅力です。
登場人物の髪型にせよ、着物にせよ、浮世絵でしか見られない。細やかな点まで再現されています。
既婚女性に眉を剃らせるこだわりも、江戸オタクならではといえる。
見栄えや役者のファンを選ぶならば、眉を落とすなんてしないはず。あえてそれをするあたりに、オタクらしいこだわりがみえてきます。
2024年を経て、2025年の大河ドラマも進歩する
いかがでしょうか。『べらぼう』とはこんなにも斬新なのです。
2025年の予想がこんなにも心が弾むのは、2024年のおかげでもあります。
2024年は大河ドラマにとってターニングポイントとなるでしょう。
女性視聴者獲得の意義が理解されたこと。
視聴率でなく、視聴回数による評価が重要だと認識されたこと。
おもしろさだけでなく、作品が投げかける問いかけや意義も重視されること。
朝の連続テレビ小説が『虎に翼』であり、大河ドラマが『光る君へ』であった2024年は画期的であったのです。
そうはいっても、そのあとの作品が引き継げなければよろしくない。
朝ドラについて言えば、2024年は前半期と後半期の乖離があまりに激しい年でした。
『虎に翼』の長所を自作は引き継ぐことなく苦戦。朝ドラをご覧になられていない方は、『光る君へ』のあとに『どうする家康』が放映されているような状況だとご想像ください。
大河ドラマは、そんな朝ドラの轍を踏まずともよいでしょう。
大河ドラマにも多様性は必要だからこそ
この点は安心材料があります。
大々的に扱われている平賀源内です。
特定層に刺さると前段で指摘しつつ、そこに「いわゆる腐女子」はあえて外しました。2020年代半ばには古い概念と思えます。
それを言い換えまして「ブロマンスファン」としましょう。そうした層は平賀源内に着目すると思います。
まだ明かされていないものの、相関図で源内の隣にいる井之脇海さんが演じる浪人の新之助は、平賀源内にとっては特別な関係か、そうでなくとも源内が好感を抱いている人物であってもおかしくはないと思えます。
これはただの妄想というわけではありません。
平賀源内は近代史へ向かう人類の意識を考えるうえで、非常に重要な人物です。
それは何か?
彼は自分のセクシュアリティを自覚し、妥協することなく、そのことを発信した人物といえる。彼は同性愛者なのです。
彼のどこが近代的か。
歴史上には、性のバリエーションとして同性を愛した人もいれば、同性愛傾向が強くとも家名存続のために妻帯している人物もいます。
源内はそのどちらにも属せず、同性愛者としての己を貫き、その上での不利益も受け止めて生きる決意を固めています。文才もあるため、その思いを記すこともできたのです。
そうした史実を踏まえ、一捻りするであろうことも、PR映像から見えてくる。
源内はどこかおもしろそうに、俺の好みの女を連れてくるよう、蔦重に話しています。
しかし、源内好みの女なんて「いねぇ」のが正解でしょう。そんな、女に興味のない源内が、女好きの心を掴む仕掛けを考えるという捻り。
源内と何かありそうな新之助が、うつせみという遊女と運命的な出会いを果たすという波乱。
この時点でこれをどう転がしていくのか、気になるところです。
江戸を生きる一人のゲイとして、彼がどんなアイデンティティを見出してゆくのか。その姿から勇気づけられる人もいれば、多様性について学ぶ人もいることでしょう。
源内役が安田顕さんで、新之助役が井之脇海さんというのも、素晴らしいではないですか。
これで源内が内野聖陽さんか西島秀俊さんあたりだったら、あざとさが勝る。安田さんであればこそ、知性で人も相手も推しはかる、そんな人物であることが伝わってきます。
東洲斎写楽の謎に挑む大河ドラマ
源内とその周辺は、多様性について考える極めて真面目な描写を規定しています。
一方で、あえて捻れてドロドロしてきそうなブロマンスもあると思えます。
それは蔦重、歌麿、写楽の三角関係です。
いったい何を言い出すのか?と困惑する方もおられるかもしれません。かいつまんで説明いたします。
喜多川歌麿という絵師は、蔦重が渾身のプロデュースをした結果、頂点にのぼりつめたといえる。さして名も売れていないころから文人ネットワークに売り込み、斬新なアイデアをひっさげて登場させました。
その二人目にしようとして、失速し、消えてしまったのが東洲斎写楽です。
写楽についていえば、後世からすれば不思議に思えるほど、当時の絵師すら語り伝えていません。その例外が歌麿で、嫉妬がこもった「それみたことか!」と言いたげなコメントが残されています。
歌麿は、蔦重がどうして役者絵も任せてくれなかったのかと恨みを抱いていたのでは?
自分を華々しくプロデュースしてくれるのは、蔦重だけだと思っていたのでは?
あれほど売れっ子になってからもそう思っていたのだとすれば、なんて重たい愛憎なのでしょう。
写楽についての正体と、デビュー後失速した原因については、歴史ミステリでもなんでもなく、実はもう決着はついています。
『麒麟がくる』においても、今日では否定されて決着済である歴史ミステリの定番「本能寺黒幕説」には触れなかったチームです。今さら正体は深掘りしないでしょう。
蔦重がどうして失敗してしまったのか? 江戸っ子のニーズを読み違えたのか?
焦点は、ここになることでしょう。ましてや蔦重はこの失敗からほどなく生涯を終えるのですから。
となると『麒麟がくる』チームだけに、何かが見えてきます。
そこにどんな理由があろうと、歌麿は「俺を起用しねえからだ!」と口を尖らせるのでは?
なにせ、演じるのは『麒麟がくる』では織田信長役であった染谷将太さんです。
大河関連番組で「信長はもうずっと十兵衛(光秀のこと)ラブ!」と語っていた彼の理解力と演技力です。
凄まじい愛憎の嵐が待ち受ける年末になる。そう期待を込めておきます。
視聴者としては「写楽が偉大かどうかよりも、愛憎劇が印象に残っている……」となるかもしれませんが、それもきっと魅力的なことでしょう。
2025年、吉原を描くリスクと意義
ここ数年、意識の変化と、それに追いついていないために燻ることがありました。
2020年の『麒麟がくる』放映中、ドラマにも出演している芸能人のラジオでの発言が、問題視されました。
「コロナが明けたら美人さんが風俗嬢やります」
女性が貧困に陥る状態を喜ぶとは、あまりに酷いとみなされました。
2021年に子どもに人気のアニメ『鬼滅の刃』で遊郭が舞台となるシリーズ放映が決まると、これも悪影響や誤解を与えないかと不安視されました。
2024年は「大吉原展 江戸アメイヂング」が開催前から炎上しました。吉原の持つ暗部を軽視したような軽薄さが悪目立ちしたのです。
ショッキングピンクの派手なビジュアル。
「お大尽ナイト」といった軽薄さも感じる有料企画名などなど。
どうしてこれが通ると思ったのか、首を捻った方もいたことでしょう。
こうした炎上事例をみていくと、『べらぼう』は鴨を背負ったネギを超越し、ガソリンタンクを背負って火山へ猛然と駆け抜けていくほどの無謀さを感じさせなくもありません。
蔦重は吉原生まれの吉原育ち。そこにいる遊女をネタにして一儲けし、江戸の出版界へ殴り込みをかけるのです。
遊女の生き血を燃料にして爆走する、外道中の外道とみなされかねないではないですか。
いくらなんでも、ましてや『麒麟がくる』チームが、そんな無謀行為をするとは思いません。
『大奥』に引き続き、インフィマシーコーディネーターを、大河ドラマでは初めて採用してもいます。対策をしていないわけがありません。
2023年にジャニーズ問題を無視して突き進み、大失敗をした悪しき前例とは異なると思いたい。
ここでまず考えたいのは、なぜ、吉原はじめ性風俗関連は炎上するのかということです。
私の意見としては、企画する側の意図も理解できるし、問題視する側の言うことも正しいというところです。
歴史修正にさらされてきた吉原
吉原遊女をテーマにした映像作品は、多くあります。
作り手が戦争体験者の世代ですと、陰惨な側面は欠かせないものでした。
彼らには青線赤線といった性風俗街の記憶があります。戦後の混乱の中、米兵相手に身を売ることでしか生きられない女性たちの姿も見てきました。
彼女たちは追い詰められてそうしている。それを茶化してよいものか?
そんな倫理観は作り手にも、見る側にも共通していました。
それが変わってゆくのが、日本が十分に経済成長を遂げ、かつ戦争を知る世代が一線を引いていくようになった1990年代後半あたりからでしょう。
同時代の代表作として、漫画および映像化もされた『さくらん』があります。
それまで吉原を舞台にした映像化作品といえば、映画『吉原炎上』が定番でした。
何度もテレビで放映されたこの作品は、あまりの苦しさに吉原に放火する遊女の凄惨な姿を描いたもの。お色気以前にあまりに酷い。トラウマになった。そんな人もいたことでしょう。
『さくらん』の、蜷川実花さんが手がけたビジュアルは、ビビッドで明るいものでした。
陰気なイメージは吹き飛ばされ、ポップでオシャレな世界だと憧れすら感じさせるものです。
「花魁風」と銘打った着物コーディネートが現在でもしばしばみられ、物議を醸しています。それも『さくらん』後の価値観ではないかと私は推察しています。
これは何もフィクションの中の話でもありません。
1990年代後半ともなると、女性が性を売り物とすることも、極めて軽くなっていました。
1990年代前半には「ブルセラブーム」があります。女子学生が制服や体操着を売り、小遣い稼ぎをしていた現象です。
1990年代後半になると、ルーズソックスにミニスカートの女子高生たちが、遊ぶ金欲しさに「援助交際」をするものだとマスメディアは誘導するようになりました。
成人向けビデオ女優が堂々とテレビで取り上げられるようになっていくのも、ちょうどこの時代のことです。
かつて女が身を売るとなれば、貧しさから泣く泣くそうしたのに、イマドキの女はそうじゃない。遊ぶために気軽にそうする。女が身を売ることを大仰に深刻ぶって、受け止めなくてもいいんじゃない?――そうした空気が日本を覆っていました。
そうした時代を生きてきた世代からすれば、吉原の暗部を真面目ぶって取り上げるなんて、「ダサい」。
「大吉原展」を『さくらん』を思わせなくもないショッキングピンクで飾り立て、「アメイヂング」と呼ぶのは当然のことといえます。
しかし、そうした広告担当者は時代に追いつけていない。
私はそのことも指摘しなければなりません。
どの時代だろうと、そもそも気軽に身を売る女なんて、どれほどいたのでしょうか。
時代の空気がそうするように強いてきただけ。ヘラヘラと笑って、なんでもないフリをしていただけ。それが実態ではありませんか?
国がどれだけ豊かになろうが、一定数の貧困層はいます。
女性が経済的に自立できないことは、いつの時代にもあてはまるのです。
吉原の遊女にせよ。ルーズソックスのギャル女子高生にせよ。
彼女たちが楽しそうに、何も考えていないように見えたとすれば、目が曇っていたか。はたまた気づかないふりをしていただけか。そのあたりではないですか?――という問いを突きつけてくるのが、『べらぼう』であると予測します。
むしろ最低限でもそこまでやらねば、失敗確定でしょう。
もはや先送りできない問題に、大河ドラマは挑むこととなります。
2020年代に「吉原」を描く意義
2000年前後、せいぜいが稲光程度のはかない幻惑でしかなかった手法が、2020年代にもなって通じるわけがない。
それが今、直面している現象です。
『鬼滅の刃』「遊郭編」は、これを理解している良心的な作風です。
あの作品では吉原がいかに非人間的で、そこに生きる人々の心を蝕み、不幸に陥れるか。プロットの根底にありました。
子どもですら吉原の非道を、妓夫太郎と堕姫の兄妹から学んでいるのです。大人がそうできないのはあまりに恥ずかしい話でしょう。
とはいえあの時代、1990年代後半からの歴史修正はタチが悪いものだと、私は舌打ちしながら江戸文化の本をめくったものです。
近年の言動を見れば、キッパリと吉原文化の負の側面をあげている先生でも、当時の書籍、ましてや一般書となると明るい吉原のことしか語っていなかったりする。
男女の話者による対談があると、男性側が女性側に平然とセクハラじみた言葉を投げかけている。
「吉原について語れる女なんて、どうせエロいんだろw」
こんな偏見が滲んでいて、ため息をつかずにはいられません。
吉原の遊女の中には成功して幸せになる人もいた。そんな少数例外を取り上げる歴史修正の定番技法も堂々と用いられています。
こうしたここ二十年余りの、歴史修正と女性蔑視の垢は、もういい加減洗い落とさねばなりません。
大河ドラマをその掃除道具として使うのであれば、これほどの妙手はそうそない。なにせ関連企画や関連書籍もある程度の売り上げは見込めます。
二十年前は黙らされてきたあの先生たちも、きっとしっかりと吉原の暗部を語ってくれることでしょう。
こうした時代の要請に応じるべく、『べらぼう』は罠を十重二十重と巡らせ、視聴者が精神的打撃を受けて立ち直れないほどの展開を用意せねばなりません。
吉原生まれ、吉原育ちの蔦重は、吉原を救うのか?
もう、罠の片鱗はPR映像で見えてきています。
口元に血を滲ませ、病に苦しむ遊女たち。
それなのに全員悪人としか言いようのない女郎屋の主人たちは、己を「忘八者」だと定義して開き直っています。
「忘八」とは儒教倫理を全て持ち合わせない悪人という意味で、当時の遊郭関係者が実際にこう自虐的に称していたのです。
中にはぬけぬけと、女郎が早死にした方が客も楽しみだという者までいるようで。十分暗部が出てきています。
それを変えようとするのが蔦重……と、放送前PR動画では説明されますが、何かひっかかりませんか?
蔦重が吉原をプロデュースすべく知恵を絞ったことは確かです。
ただ、あくまでプロモーションの一環であり、遊女の労働環境改善につながったとは言い切れない。
さらには成功をめざして、吉原を出て日本橋に店を構えます。
吉原をダシにして躍進し、忘れていないかと首を捻ってしまうのでは?
蔦重の人生を辿ると、そう思えてきてしまう。
蔦重は「金なし、親なし、家なしのないない尽くし」と紹介されます。
そんな彼が成功し、金も、妻も、家も、店も、名声も手に入れていく。それがメインプロットとなるはずです。
ただ、その過程で失うものがあるとすればそれは何か?
彼も「忘八」になるのではないか?
あんなに嫌っていた連中と同じになってしまうのだとすれば?
想像するだけで暗澹とさせられます。なにせこのチームは『麒麟がくる』を手掛けています。
あの作品では「麒麟がやってくる大きな国」を目指していたはずの光秀と信長が、どうにもそれを忘れていくように思え、決裂する様が描かれました。
序盤で光秀と信長が、無邪気に「大きな国を作るのだ」と語り合う場面は最終盤になっても回想シーンで出てきたものです。
思えばその前の『軍師官兵衛』にせよ、最終盤ではあの好青年であった官兵衛が、毒々しい謀略家に変貌したものでした。
若い頃の原点を忘れ、奈落に落ちる。そんな人間が生きる上での理想と現実の落差を描く上で実績のあるチームです。
脚本の森下佳子先生の腕前は、もはや語るまでもありません。
泰平の世の江戸時代のはずなのに、なんでこんなに暗い気持ちになるんだ――年末、視聴者がそう呆然としていても、驚くことはない、これがやるべきことだったと私は思うこととします。
★
吉原関係でも憂鬱な展開があると思われる『べらぼう』。
それだけではありません。江戸時代を大きく転換させたかもしれない、田沼意次の諸政策も頓挫します。
【田沼時代】の崩壊は、スケールが大きく、ビジョンが明確なだけに、見ているだけで虚しくなることでしょう。
その【田沼時代】終焉をもたらす田沼意知殺害事件と、それにはしゃぐであろう主人公周辺についても想像するだに辛くなってきます。
そうしてはしゃいだあとで到来する松平定信の時代、江戸の版元たちはどんな顔をすることやら。
人間の持つあたたかさ、やさしさ、すばらしさ。それだけでなく、苛烈さや残酷さまで描く森下佳子先生は、幾度となく視聴者の脳天に痛撃を叩き込んでくることでしょう。
それができるからこそ、このチームに迎えられたであろうことも想像がつきます。
2025年大河ドラマは『べらぼう』――まさにこのタイトル通り、何度も何度も、視聴者が「ちくしょぉおぉ、このべらぼうめぇええ!」と叫びたくなる、奇妙奇天烈で無茶苦茶な作品になると思います。
相当な珍品で個性が強くなり、わからない人にはまったく受け付けない珍味になるとは思います。
視聴率はこの際忘れていい。低いことは近年の試聴傾向から確定しています。
しかし、何度も何度もリピをしてしまう中毒者も出すでしょうから、2024年に続いて試聴回数は高いと想像します。
関連の金が動く気配もバッチリあります。
関東各地で浮世絵展はじめ展覧会が開催され、関連書籍も好調になるでしょう。一年を通して紙媒体の雑誌にまで関連記事が掲載されるのではないかと期待をこめています。
『べらぼう』な一年を、心して待っています。
みんなが読んでる関連記事
-

なぜ田沼意知(宮沢氷魚)は佐野政言に斬られたのか?史実から考察
続きを見る
-

『べらぼう』染谷将太演じる喜多川歌麿~日本一の美人画浮世絵師が蔦重と共に歩んだ道
続きを見る
-

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家で日本エンタメの祖
続きを見る
-

『べらぼう』古川雄大が演じる山東京伝は粋でモテモテの江戸っ子文人だった
続きを見る
-

田沼時代を盛り上げた平賀源内|杉田玄白に非常の才と称された山師の生涯
続きを見る
【TOP画像】
大河ドラマ『べらぼう』ガイドブック(→amazon)
【参考】
べらぼう/公式サイト





