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【法然と浄土宗】
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ただ一心に阿弥陀仏の名を唱え念じる
それを裏付けるかのように、この頃の西日本では、飢饉や疫病などの災害も頻発していました。
戦乱に天災が重なっては、実生活が厳しくなるのはもちろん、生き延びた人々の心にも暗い影を落としますよね。
現代ではとても考えられない話ですが、道端に死体がゴロゴロ……なんてのも珍しくない時代ですし。
貴族をはじめとしたお金のある人々は、エライ僧侶に祈祷をしてもらって心を安らげることもできたでしょう。
また、志の強い人は、お寺に入って厳しい修行を積み、心の安寧を得たかもしれません。
しかし、世の大半を占めるのは、そうしたお金やツテのない庶民たちです。
また、仏道修行はよほど強固な意思がないと務まらないもの。いずれの方法も、全ての人が成し遂げられるわけではありません。
身も心も休まらないまま、路傍で力尽きる……そんな光景も、多々見られたことでしょう。
そんな世の中で、法然はこんな風に考えます。
「仏様は、身分や修行に関係なく人間を救ってくださるはず。新しいやり方を考えて、一般の人々も仏様に助けを求められるようにすれば、多くの人が救われるのではないか」
そして、唐における浄土宗の僧侶・善導の著作から「ただ一心に阿弥陀仏の名を唱え、念じる」といった意味合いの一文に出会い、「これだ!」とひらめきました。
「浄土宗」となったのは1175~1185年の間
念仏であれば、お金をかけたり高名な僧侶を呼び寄せたり、長年に渡って修業をするよりも、ずっと早く・誰でも信心を表すことができます。
まさに、法然と当時の民衆に求められているものでした。
この「ただひたすらに念仏をし、仏様に救いを求める」ことを「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」といいます。
有名な「南無阿弥陀仏」がコレです。
「南無」とは「帰依する」という意味ですから、「阿弥陀仏の教えに従う私をお救いください」ということですね。
自らの道を見出した法然は、比叡山を下りて京都の東山に移り住みました。
当初は積極的に布教しようとはしていなかったようです。
比叡山で長年暮らしていただけに、新しい考えを急に広めようとすれば、かつての師や同輩と衝突してしまうと思ったのでしょうか。
「浄土宗」という名称ができたのは、1175~1185年の間だと考えられています。
法然は「争いを避けつつ、ゆっくりと自分の宗派を世の中に浸透させ、多くの人を救いたい」というつもりだったのかもしれません。
1185年といえば【壇ノ浦の戦い】で平家が滅びた年でもありますね。
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参戦していた清盛の五男・平重衡が処刑される直前、戒を授けたのが法然だったとか。
この時点で、法然の名はある程度知られていたのでしょう。
重衡は【富士川の戦い】の後に奈良の僧侶たちを黙らせるため、奈良一体を焼き討ちした人です。
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最後の最後に別の宗派の開祖から戒を受けて、救われたでしょうか。
そのとき阿弥陀仏に後光が!?
また、比叡山にいた頃から知恵者として知られていた法然を、天台宗のほうが放っておきませんでした。
文治二年(1186年)(または1189年)、天台宗の顕真という僧侶が勝林院(京都市左京区)に法然を招き、仏教談義をしました。
他の天台宗の僧侶たちが法然に難癖……もとい難題を次々投げかけ、そこで法然は「念仏によって救われる」と言い切ったのだとか。
そのとき、御本尊である阿弥陀仏が光り輝き――。
居合わせた人々は
「法然様の教えが正しいんだ! 俺たちも念仏で救われるんだ!」
と沸き立った……と伝わります。
平家が滅びた直後~鎌倉幕府ができるまでの時期ですから、皆「平家はいなくなったけど、これから先安心して暮らしていけるのかな……」と、不安に思っていたことでしょう。
余談ですが、勝林院には似たような話がもう一つあり、そのときもやっぱり阿弥陀仏が光ったのだそうで。
『夕日が差し込んだだけなんじゃ……』とツッコむのは罰当たりでしょうか。
時刻まではわからないので、夕方じゃなかった可能性もありますが。
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