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【足利義量】
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急性アルコール中毒か、あるいは依存症か
酒毒が体に影響したものか。
実際、義量の体は次第に蝕まれていったようです。
詳しい病状がわからない上、享年19(満17歳死去)で急死となってしまいます。
確率としては急性アルコール中毒の可能性が一番高いでしょうかね。
亡くなる2~3年前から病気だったともいわれていますので、慢性的な二日酔い=アルコール依存症の末に……というのもありそうです。
ぶっちゃけ、義量に関する記録は少なすぎて、彼を中心に据えた研究はほぼ行われていないような有様ですから、依存症での死というのは完全に私の想像ですが……。
もしも義量がお飾りの将軍位に鬱屈してお酒に走ったのだとしたら、一つだけ評価できるとすれば「漁色に走って子供を作りまくらなかったこと」でしょうか。
身も蓋もありませんし、一人の人間として見た場合は不幸極まりないのですが、権力者の子供が多すぎてトラブルとなる例は枚挙に暇がありません。
他にも「若年の将軍が急死」というところから、当時は何らかの祟りではないか?とも考えられたそうです。
「義嗣(義持の弟で義満に寵愛されていた人)の祟りだ」とか、「義持がブッコロした石清水八幡宮関係者の(ry」とか。
それならそれで義量じゃなくて義持に祟れよ、という気がしますけれども。
死後に贈られた従一位左大臣にはどういう意味が?
義量には子供がいなかったため、次の将軍を決めるときに一悶着起きました。
詳細は、以下の六代将軍・足利義教の記事でご確認していただくとして、今回はもうちょっと先のお話を最後に付け加えさせていただきます。
足利義教は“くじ”で決められた将軍だった?万人恐怖と呼ばれた最悪の治世
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長禄元年(1457年)、義量の三十三回忌に際し、従一位左大臣が贈られました。
当時の将軍は八代・足利義政です。
義量と義政は、血縁上ではイトコ同士なのですが、義量が亡くなった後に義政が生まれているので、面識はありません。となると、義政の奏上で追贈されたわけでもなさそうです。
室町幕府の崩壊は八代将軍足利義政から始まった?56年の生涯まとめ
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他には、義政の兄である七代将軍・足利義勝、十二代・足利義晴、十三代・足利義輝が従一位左大臣を追贈されています。
それぞれの死因は
・義勝
→不明(赤痢説が有力・他に暗殺や落馬など)
・義晴
→漂泊の末に水腫で病死(病状に絶望して自害した説も)
・義輝
→松永久通(松永久秀の息子)らに謀反を起こされ、応戦の後自害
穏やかではないものばかりです。
ここで注目したいのが、室町幕府のほとんどの将軍が【太政大臣】を追贈されているということです。
死因の怪しい、激しい人たちはそれより劣る左大臣。
となると、もしかして「ちょっと不吉な死に方だったから一段下げよう」みたいな不文律があった? 死んだ後までヒドイ扱いしなくたっていいと思うんですけど……。
実権のなさと生涯の短さから、将軍のうちに数えてもらえないことすらもある義量。
もしも酒に溺れず、壮年まで生きられていたら、室町幕府や戦国時代は大きく影響を受けたかもしれません。
彼の足跡や人柄がわかるようなものが、今後見つかればいいのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
足利義量/wikipedia