義円

歌川国貞による常盤御前と子供たち/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

義円(義経の同母兄)が墨俣川の戦いで呆気なく討死してしまった理由を考察

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墨俣川の戦い

治承5年(1181年)3月10日。

源行家義円軍とぶつかった平家の両名。

今度は、さすがに富士川の二の舞だけは避けねばなりません。士気も相応に高かったのでしょう。

平維盛
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平家軍は、源行家と義円の襲撃を察知し、結果、源氏軍は大敗北を喫してしまいます。

義円は、この乱戦の最中に討ち取られてしまいます。

享年27。

僧侶ではあったものの、遺児・義成が残されました。

儚く散った義円については地元民が供養を行い、義円地蔵や供養塔、義円公園が残されています。

◆源平墨俣川古戦場 義円公園(→link

◆「鎌倉殿の13人」実力派・成河 大河初出演!源頼朝の異母弟・義円役 小栗旬と「髑髏城の七人」で共演(→link

源平作品に出ることがそう多くはない義円。

成河さんが凛々しく演じることで、この悲運の将に注目が集まるよう願いつつ、最後に敗戦の理由なども考えてみたいと思います。

 


なぜ、負けたのか?

富士川での一戦を源平で真逆にしたような戦い――それが墨俣川の戦いです。

平家の負け方も惨めでしたが、源氏もなかなかどうして酷いものがあります。

いくら戦術が粗い当時であっても、決して勢いだけでは勝てない。

以下のような敗因が考えられます。

・河を挟んだ合戦は難しい

河を渡るとなると、どうしても隙ができます。

尾張や美濃は川が多く、そのため戦国時代には川沿いにいくつも城が築かれました。

当時はまだまだ軍事施設の整備が甘く、備えなしで戦っては当然の敗北と言えるでしょう。

・湿地帯対策が甘い

木曽義仲も然り。源平合戦では深みにとられて命を落とす武将がいます。

墨俣川周辺は湿地が広がっていましたが、源氏サイドでその対策が不十分だった可能性が考えられます。

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
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・指揮系統が乱れている

野心家で何かと甥を操る源行家。

功を焦る義円。

リーダー格の武士が、こうも欲に駆られていては危うく、指揮系統が乱れていたと思われます。

なまじ全弟である源義経が悲運の将として有名であるせいか、反動で影が薄い義円。

彼のあっけない死は、源氏にしても指揮系統が乱れていたことを伝えます。

同時に、そうした状況をものともせず、大勝利をおさめた義経や木曾義仲がどれだけ強かったか。皮肉にもそのことがわかります。

源行家の存在も義円にとっては不運だったかもしれません。

源行家
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公式サイトでは甥を操る野心家と説明されているこの人物。

その被害にあったのが義円と言えるのではないでしょうか。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon

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