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墨俣川の戦い
治承5年(1181年)3月10日。
今度は、さすがに富士川の二の舞だけは避けねばなりません。士気も相応に高かったのでしょう。
平維盛が平家敗北の戦犯なのか~富士川の戦いで惨敗した後はどうなった?
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平家軍は、源行家と義円の襲撃を察知し、結果、源氏軍は大敗北を喫してしまいます。
義円は、この乱戦の最中に討ち取られてしまいます。
享年27。
僧侶ではあったものの、遺児・義成が残されました。
儚く散った義円については地元民が供養を行い、義円地蔵や供養塔、義円公園が残されています。
源平作品に出ることがそう多くはない義円。
成河さんが凛々しく演じることで、この悲運の将に注目が集まるよう願いつつ、最後に敗戦の理由なども考えてみたいと思います。
なぜ、負けたのか?
富士川での一戦を源平で真逆にしたような戦い――それが墨俣川の戦いです。
平家の負け方も惨めでしたが、源氏もなかなかどうして酷いものがあります。
いくら戦術が粗い当時であっても、決して勢いだけでは勝てない。
以下のような敗因が考えられます。
・河を挟んだ合戦は難しい
河を渡るとなると、どうしても隙ができます。
尾張や美濃は川が多く、そのため戦国時代には川沿いにいくつも城が築かれました。
当時はまだまだ軍事施設の整備が甘く、備えなしで戦っては当然の敗北と言えるでしょう。
・湿地帯対策が甘い
木曽義仲も然り。源平合戦では深みにとられて命を落とす武将がいます。
墨俣川周辺は湿地が広がっていましたが、源氏サイドでその対策が不十分だった可能性が考えられます。
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・指揮系統が乱れている
野心家で何かと甥を操る源行家。
功を焦る義円。
リーダー格の武士が、こうも欲に駆られていては危うく、指揮系統が乱れていたと思われます。
なまじ全弟である源義経が悲運の将として有名であるせいか、反動で影が薄い義円。
彼のあっけない死は、源氏にしても指揮系統が乱れていたことを伝えます。
同時に、そうした状況をものともせず、大勝利をおさめた義経や木曾義仲がどれだけ強かったか。皮肉にもそのことがわかります。
源行家の存在も義円にとっては不運だったかもしれません。
戦は下手でもメンタルだけは強い!源行家は墨俣川の戦い惨敗後も粘り続けた
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公式サイトでは甥を操る野心家と説明されているこの人物。
その被害にあったのが義円と言えるのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他