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【姫の前】
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三人の子に恵まれるも引き裂かれ
義時が惚れて惚れてようやく結ばれた――そんな夫妻は子宝にも恵まれました。
建久4年(1193年)に朝時が生まれると、建久9年(1198年)には重時が誕生。
生年不詳の女子・竹殿も、姫の前が母とされています。
しかし、残念ながら夫婦生活は末永く……とはなりませんでした。
建仁3年(1203年)9月に【比企能員の変】が起き、比企一族は滅亡するのです。
比企能員はなぜ丸腰で北条に討たれたのか? 頼朝を支えてきた比企一族の惨劇
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政争の相手は、他ならぬ北条氏。
姫の前は命こそ助けられましたが、二人は離縁となってしまいました。
程なくして姫の前は上洛して源具親と再婚し、元久元年(1204年)には輔通を生んでいます。
そして承元元年(1207年)3月29日に死去したとされます。
実家の後ろ盾があればこそ
姫の前の記録については以上ですが、あらためて考えてみたいことがあります。
せっせと恋文を送り続けた義時を、史実の彼女が拒んでいた理由は何だったのか?
「性格が高慢でプライドが高いから」
「義時が好きになれなかったから」
「他に好きな相手がいたから」
このあたりがパッと思いつくところですかね。
『吾妻鏡』の記述からすると、彼女のプライドの高さが影響しているように思えます。小野小町の百夜通伝説も連想されますし。
ただ、歴史を読み解く上で、考えたいことがあります。
歴史上「気が強く、高慢で、わがままな、悪女だ」と言われる女性は、おおむね権力を有しているか、実家の後ろ盾があるケースが多く、強気の発言をしても危害が加えられない立場にあります。
逆に、気が優しくおとなしいとされた女性はバックが無力であり、何らかのキッカケで容易く転落してしまう。
「悲運の美女」という結果から逆算されることが多い。
姫の前の場合は北条義時のアプローチを拒んでもよいだけの力がありました。
「当時権威無双の女房」
であったのは、実家である比企の力が背景にあったからでしょう。
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