佐々木定綱

源平・鎌倉・室町

鎌倉武士・佐々木定綱~無名で地味なれど数多の子孫が日本史上で大活躍する

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次男の定重は打首に処されてしまう

頼朝としても「延暦寺側の人だって佐々木家の武士をコロしてるでしょ? もうちょっと何とかなりませんかね?」(※イメージです)と交渉しましたが、これは失敗。

かえって延暦寺側から「神鏡を壊した罰当たりなヤツを殺せ!!」と反発を招いてしまい、頼朝はこれを飲まざるをえなくなります。

その罰当たりこと定綱の次男・定重は、配流先に向かう途中で首を落とされることになりました。

一人の犠牲で済んだと思えばまだいいほうでしょうか。

定綱は息子を失いましたが、3年で元の地位に戻ることができました。

上洛した頼朝のお供を務めたり、彼の信頼が揺らぐことはなかったようです。

頼朝ってとかく部下に厳しいイメージがありますが、やはりデキる人はきちんと評価して大切にしていますよね。

その後は問題なく役目に励んだらしく、亡くなる直前に出家したということの他に目立った記録はありません。

 


京極家に今井家 さらには間宮林蔵まで!

さて、そんな感じで地味な定綱ですが、実はこれより後の時代から見ると結構スゴイ人だったりします。

実に多くの戦国武将や歴史人物のご先祖様となっているです。

近い時代では、足利尊氏に良い評価をしてくれた夢窓疎石(むそうそせき)というお坊さんがいます。定綱からするとひ孫です。

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また、苗字が変わっているのでわかりにくいのですけども、近江の大名・京極家や六角家の祖先に当たります。

京極家は「蛍大名」こと京極高次の家ですね。

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六角家は浅井長政織田信長と戦っているので、名前を見かけたことのある方もいるのではないでしょうか。

まぁ、どっちにしろ地味ですけど。

他には商人かつ茶人の今井家や、医師の曲直瀬道三樺太が島であることを発見した間宮林蔵などなど。

あらゆる分野へ多岐にわたり、子孫が活躍しており、もともと佐々木家は戦以外のことに才能がある一族だったのかもしれません。

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鎌倉時代にはなかったものも多いですし、これこそ後世からの視点だからこそ言えることですけども。

「家を存続させること」が武士の最大の目的。

そう考えれば、定綱は立派にそれを成し遂げたことになります。


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【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon
佐々木定綱/wikipedia

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