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【多々良浜の戦い】
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京都への進撃、そして九州への敗走
尊氏は、戦では「バカみたいに強い」と称される男でした。
その尊氏が「戦う」と腹をくくったのですから、その勢いはすさまじいもの。鎌倉を出て道中で敵軍に勝利し、一気に敵の本拠地である京都へ攻め込みます。
「守りにくい土地」と言われる京都を、尊氏は東・西・南から巧みに攻撃していきます。
この結果、天皇側の軍は敗れ、見事に京都を制圧します。
……が、「守りにくい」のは尊氏も同じでした。
京都で戦う尊氏のもとへ、東北の若き名将・北畠顕家らがやってきて猛攻を仕掛けます。
「人や馬が山のように死んでいる」と言われた悲惨な戦となり、尊氏は敗北します。
この結果、尊氏軍は兵庫を経由し、九州へと逃げ延びていくのです。
九州への逃亡は、「落ちる」、つまり没落という形になるのですが、尊氏は戦いをあきらめてはいません。
「オレに味方すれば、鎌倉幕府滅亡時に後醍醐天皇に没収された土地を返す!」
「光厳上皇に院宣 (公認)をもらい、 『朝廷の敵』となることを避けるぞ」
といった約束をしながら味方を集めようとしていました。
◆補足解説 反乱者尊氏
この反乱で尊氏がもっとも恐れたのは、「天皇の敵」とみなされる 「朝敵」になることだった。
が、天皇家も一枚岩ではなく、 後醍醐天皇と対立関係にあった光厳上皇の院宣を得ることができ、 朝敵になることは避けられた。
九州のリーダーを目指して
九州で再起をかける尊氏。
当時の九州は、鎌倉時代に九州を統括した「鎮西探題」という機関が滅び、いくつかの勢力が乱立していました。
その中で強力だったのは肥後国(現在の熊本県)を拠点とする菊池武敏で、尊氏が九州の地で復活するには何としてでも菊池を倒し、新しいリーダーとなる必要がありました。
このとき、尊氏の味方には少弐氏・大友氏などの守護、宗像大社・香椎宮などの神社がついていました。
当時は今より神への信仰心が強く、有名な神社を味方につけることは大きな信用力につながりました。
そのため、尊氏は強い存在感を発揮していたことでしょう。
しかし、問題は兵の数。 尊氏軍がわずか1千に対し、菊池軍は総勢6万だったと言われています。
尊氏軍の不利は明らかでしたが、彼らの希望となっていたのは敵が「寄せ集め」だったことです。
菊池軍のメインである武敏軍は300ほどで、残りの5万7千700は「まあどっちかって言うと勝ちそうなのは菊池だよね〜」と、情勢を見て菊池軍についているだけだと尊氏は分析しました。
そこで、敵の裏切りを増やすためにさまざまな仕掛けを講じます。たとえば鎧1つにしても、権威を演出するため武具や防具の細部にまでこだわります。
「都会のイケてる武士は、やっぱり違うなぁ」と、ブランディングをしっかりと行ったわけです。
◆補足解説 尊氏という人
足利尊氏は、源頼朝や徳川家康に並ぶ 「武家の棟梁 (トップ)」ではあるものの、両者に比べると知名度で一歩劣る印象は否めない。 より率直に言うと、 「あまり人気がない」のだ。
事実、尊氏をめぐる神話や伝説の少なさは研究者にも指摘され、 そうしたイメージは現代にも引き継がれている。
尊氏の人気が低い要因としては、 「南北朝合一を果たせなかったから」「天皇に歯向かったことで、 逆賊として非難されたから」などと指摘されるが、 もう1つ 「精神面の不安定さ」にも注目したい。
先に 「後醍醐天皇に敵視されたことで嫌気が差し、 寺に引きこもった」というエピソードを紹介したが、このように尊氏にはやや情緒不安定な面があり、精神的なナイーブさを持ち合わせていた。
不可解な行動を繰り返していたため、 「尊氏は精神病を患っていた!」という研究までなされていたほどである(ただし、 尊氏の精神病説については異論も根強い)。
とは言え、 多々良浜の戦いに至る過程においてもわかる通り、自身のブランディングや朝廷との関係構築などにおいて力を発揮し、 九州をはじめとする西日本の武士たちの心も見事につかんでいる。
戦いの天才であると同時に、 カリスマ性も持ち合わせた人物だったと言える。
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