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【義経を支えた三浦一族の水軍】
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漕ぎ手を攻撃したのは義経だけ?
源平合戦における水上戦闘は、当時ならではの特殊な事情が影響しました。
海戦で一般的に想像されそうな、次のような要素は“無い”とお考えください。
・長期間にわたる戦い
・船の構造が勝負を分ける
・帆を攻撃する
・火攻め(密集していない)
源平共に船の構造に大きな違いはありません。
防御力は高くなく、海流は重要でも、風はさほどではない。
よって「シンプルな要素」が勝敗を分け、それが以下の通り。
戦闘員(武士)、漕ぎ手、装備の物量、策、そして“倫理観”です。
源平合戦というと源義経の活躍がよく知られています。
【屋島の戦い】における那須与一の「扇の的」。そして義経の「弓流し」。
【壇ノ浦の戦い】での「八艘跳び」。
超人的で輝き溢れた義経の戦いぶりですが、では、彼はなぜ、そこまで活躍できたか?
よく言われるのが、
・非戦闘員である漕ぎ手に対して攻撃を躊躇しなかった
という義経の苛烈な性格が挙げられます。
しかし、本当に漕ぎ手に対する攻撃がルール無視の義経だけだったのか、その戦法が異例であったか、この辺の事情は検討が必要でしょう。
いざ命の奪い合い(戦闘)ともなれば誰しも勝利に必死となるはずで、もしも敵の漕ぎ手を倒すことが有用な戦術であれば、義経以外の武士が用いていても何らおかしくはありません。
天皇と三種の神器
それに源平合戦には独特の要素があります。
【壇ノ浦の戦い】における義経が、おそらく頼朝の思惑をも超え、安徳天皇や三種の神器への加害をためらわなかったことです。
平家サイドも「まさか、そこまでやらないだろ?」という思い込みがあった可能性は否定できないはず。なんせ彼らの船には、非戦闘員である女性たちが多数乗り込んでいました。
一方、義経サイドにしてみても、背後にいた助力が霞んでしまっています。
前述の通り、義経だけでは、戦いなどできません。
彼に助力した三浦義澄の案内役――その協力体制があればこそ、義経も苛烈な戦いを展開できました。
要は、
・義経の天才的な軍略
・水上戦闘における三浦党の戦術
という両者の能力が合致して初めて、源氏側が勝利を収めることができたのです。
比較対象として挙げたいのが【墨俣川の戦い】です。
頼朝の叔父・源行家が、頼朝の弟・義円を率いて戦ったもので、水上戦闘ができなかったことも災いして敗北となりました。
【富士川の戦い】の大勝利で勢いづく源氏でしたが、さすがに墨俣川では指揮系統が乱れました。
船や水夫の面で平家に劣り、大敗を喫しているのです。
中国史ですと、208年の【赤壁の戦い】、383年の【淝水(ひすい)の戦い】が挙げられるでしょうか。
大軍を擁して攻め入った側が水上戦闘技術において劣り、戦いに敗れています。
たとえ、どれだけ優れた戦術があろうとも、水上戦闘ができる者がいなければ勝利は見えてこない。
源平合戦においては、三浦一族をはじめとする水上戦闘に慣れた坂東武者がいたからこそ、勝利できたのです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、上総広常が義経に向かい「戦ってえのは一人じゃできねえんだよ」と言っておりました。
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確かにその通り。源平合戦において勝利の鍵を握った要素には、坂東武者の水上戦闘技術も含まれていたのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
樋口隆晴『図解 武器と甲冑』(→amazon)
峰岸純夫『三浦氏の研究』(→amazon)
他