三浦義村イメージイラスト

源平・鎌倉・室町

殺伐とした鎌倉を生き延びた三浦義村|義時の従兄弟は冷徹に一族を率いた

2024/12/30

源平・鎌倉期は、どんな時代だったか?

古代から中世へ社会が発展していく時期であり、それまで腕っぷしが大きな比重を占めていた武士の価値観にも変化が訪れつつありました。

知識や冷静さなど、頭脳を評価される者たちが出現し始めたのです。

その代表例が三浦義村でしょう。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で山本耕史さんが演じた役で、良く言えば「抜け目のない優等生」で、悪く言えばとにかく「冷徹」という印象。

殺し合いが多発していた鎌倉政権の草創期を生き残るのですから、単にアタマの良さだけではなくタフネスさも持ち合わせた一面も見せます。

では史実における三浦義村は一体どんな人物だったのか?

三浦義村イメージイラスト

1239年12月31日(延応元年12月5日)に亡くなった、その生涯を振り返ってみましょう。

 


義澄の嫡男・三浦義村

三浦義村は、鎌倉幕府草創期の功臣・三浦義澄の嫡男です。

生年は判明しておらず、『鎌倉殿の13人』序盤の世界観でいうと若手の武士ですね。

父の三浦義澄は佐藤B作さんが演じていました。

三浦義澄/wikipediaより引用

義村の母は、伊東祐親の娘だといわれています。

伊東祐親の娘は、他にも源頼朝・最初の妻とされている八重姫や、北条時政・最初の妻もいます。

当時の伊東氏は、さほどに強力な存在だったんですね。

祐親本人が【富士川の戦い】の後に自害していて、権力や情勢の変化がうかがえるでしょう。

義村の幼少期については、この時代の人物によくあることで、あまり記録がありません。

 


義時とは同年代

三浦義村が初めて『吾妻鏡』に登場するのは、寿永元年(1182年)8月11日のこと。

産気づいた北条政子の安産祈願のため、安房の天津神明宮(鴨川市)へ奉幣使(神社への捧げものを届ける使者)を務めた……というものです。

この日までに元服していたことは間違いないと思われますので、義村の生年はおそらく1160年代でしょう。

ドラマの主人公・北条義時は長寛元年(1163年)生まれですから、さほど年齢差のない同世代だったと思われます。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵

源平合戦こと【治承・寿永の乱】においては、父・義澄に従い、源氏サイドで各地を参戦しました。

文治五年(1189年)の奥州藤原氏討伐にも参加しています。

ただし、当時はまだ若年だったためか、個人的な武勇についてはあまり記録がありません。

唯一「若気の至り」のようなものが感じられるエピソードとして、文治五年(1189)8月9日にこんな話があります。

このとき義村は、翌10日に厚樫山を越えて敵へ攻めかかる予定になっていました。

先陣は畠山重忠が指名されており、おそらく周囲も納得していたでしょう。

しかし、義村や葛西清重など七名の武士が、深夜のうちに畠山軍を追い越して、抜け駆けをしようと試みました。

葛西清重とその妻/wikipediaより引用

重忠の部下がそれに気づき、抜け駆けを阻止しようとしたのですが、重忠は取り合わずに見逃したそうです。

一方、お目こぼしをもらった形になった義村たちは、無事(?)抜け駆けに成功。

厚樫山の奥州藤原軍のうち、数名を討ち取ったそうです。

ただし「義村が誰それの首を取りました」とは書かれていないので、七名の武士の監督役だったか、あるいは機会に恵まれなかったか……。

頼朝から特にお咎めはなかったようで、重忠が何かしらの口添えをしたかもしれませんね。

 

父から右兵衛尉を譲り受け

この時期の義村は、武士としての働きに専念していたらしく、政治や行政といった場面ではほぼ登場しません。

戦から離れた場面では、以下のような経歴が残されています。

文治元年(1185年)10月 頼朝の勝長寿院供養に従う

文治二年(1186年)11月 幼い源頼家に従って鶴岡八幡宮に詣でる

文治三年(1187年)8月 同じく鶴岡八幡宮の放生会で、流鏑馬に参加

建久三年(1192年)8月 実朝誕生前後の儀式の準備

こういった儀式的な場面で、義村の名がみられます。

時系列が前後しますが、建久元年(1190年)に頼朝が上洛したときは、父の功績を譲り受ける形で右兵衛尉の官職を受けました。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用

この叙任は、後白河法皇の意向で「御家人のうち、大きな功績のある者に官位を与える」という話が出たため、頼朝が指名して行われたものです。

義村の他にも、祖父や父から官位を譲られた人はいました。

千葉常胤→千葉常秀(祖父→孫)

◆梶原景時→梶原景茂(父→息子)

八田知家→八田知重(父→息子)

これも、鎌倉政権の世代交代を連想させるポイントですね。

日常的な場面では、建久二年(1191年)閏12月7日、「頼朝が義澄の屋敷へ遊びに行った」際に登場します。

このとき、いとこ(義連の子)である佐原景連などと共に、相撲をとるよう命じられています。

賞品や勝敗の記述はありませんが、結果がどうだったか気になりますよね。

このあたりまでの義村は、おそらく名実ともに「義澄の倅」という状況だったのではないかと思われます。

 


梶原景時の変

義村が表に出始めるのは、正治元年(1199年)12月。

友人の結城朝光から「梶原景時についての相談」を受けたときです。

馬込万福寺蔵の梶原景時像/Wikipediaより引用

詳しくは、以下の景時記事をご覧いただくとしまして、

梶原景時
なぜ梶原景時は鎌倉御家人たちに嫌われたのか|頭脳派武士の無惨な最期

続きを見る

ここでは簡単に経緯を。

梶原景時の変チャート】

1. 結城朝光が景時と仲違いする

2.「朝光には叛意がある」と景時が頼朝に告げていた――と、阿波局(政子の妹)が朝光に告げる

3.朝光が先手を打とうとして義村に相談する

4.義村が「宿老の方々にも相談すべき」と提案

5.義村と朝光が和田義盛や安達盛長など、年長の御家人に相談

6.景時は、日頃から敵が多いタイプだったので、あれよあれよという間に66人もの弾劾の署名が集まる

7.義盛と義村が大江広元に弾劾状を提出

8.広元は弾劾状を手元で差し止めていたが、義盛に急かされて渋々頼家へ提出

9.頼家から景時に事実確認

10.景時が自ら鎌倉を退去(あるいは追放)

というわけで、この件における義村はある意味「仕掛け人」といった立ち位置でした。

いきなり武力を持ち出したり、準備もせずに頼家へ訴えるといった短絡的なことをしていないあたり、冷静な印象を受けますね。

石橋山の戦いでは敵対していたとはいえ、景時は頼朝挙兵直後といっていい時期から付き従っていた功臣の一人。この件がなければ、梶原氏も鎌倉幕府の中で一大勢力となっていたでしょう。

義村からすると、政敵を蹴落とすまたとないチャンスに見えたのかもしれません。

 

畠山重忠の乱

この後しばらく「義村と三浦氏は北条氏に次ぐ立場である」と認識されていくことになります。

少々時系列が前後しますが、義村は頼朝の意向で建仁二年(1202年)に北条泰時へ娘を嫁がせていました。これも、三浦氏の立場が強まった理由の一つでしょう。

しかし、北条氏との結びつきが強まるということは、影響もまた強く受けるということ。

元久二年(1205年)には、北条時政の命によって、義時とともに無実の畠山重忠を討っています。

悪七兵衛景清こと藤原景清と対峙する畠山重忠(歌川貞秀:画)/国立国会図書館蔵

【畠山重忠の乱】と呼ばれている、この事件。

時政の後妻である牧の方が、私情で

「重忠は謀反を企んでいるに違いありません!奴が動き出す前に討たなければ!!」

とゴネて、兵を動かさせたもので、義村も義時と共に重忠を討つべく動きました。

しかし、事件後、重忠に叛意がなかったことが発覚。

すると義村は、榛谷重朝らを鎌倉の経師谷(鎌倉市材木座)で討ち果たしています。

彼らは秩父の武士で、重忠の従兄弟であり、頼朝が鎌倉に入った頃から仕えていたのですが、義村から「畠山重忠の謀殺を企んだ者として」討たれたんですね。

もしかしたら榛谷重朝らが、かつて義村の祖父・三浦義明を討った一族であったことも影響しているかもしれません。

三浦義明/wikipediaより引用

それから数カ月後、牧の方が源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと陰謀を巡らせる事件がありました。

義村はこのとき、北条政子や北条義時に味方し、実朝を守っています。

この事件によって時政は髪を落として伊豆に隠居し、牧の方も従ったため、北条氏の世代交代が終わりました。

ようやく一難去ったかと思いきや、義時によって新たな争いが起こります。

建暦三年(1213年)5月の和田合戦です。

 

和田合戦

戦の経過についての詳細は和田義盛の記事をご覧いただくとしまして、義村の動きにフォーカスしていきましょう。

和田義盛/Wikipediaより引用

この時代、誰かが何か事を起こそうとした場合、肉親や縁戚は基本的に味方するものでした。

三浦氏と和田氏は一門。

ですので義村も、最初は弟・三浦胤義などと共に、当初は和田義盛へ協力すると約束し、起請文まで書いていました。

しかし、いよいよ挙兵という段階になって考えを改めます。

義時に義盛の計画を告げ、討手となって和田氏と決別したのです。

単なる保身ともとれますが、家を残すことこそが武士の存在意義でもありますので、致し方なかったのでしょう。

鎌倉幕府ができてから、頼朝の挙兵当時から活躍してきた者は次々と討たれています。

北条時政→北条義時という世代交代や内輪揉めもあったとはいえ、おおむね「北条氏が他の御家人を排除した」状態です。

そして北条氏の私兵だけでなく、北条氏の中心人物たちが将軍の名のもとに出した命令によって、多くの御家人が討手側にまわりました。

つまり義村が

「義盛に加担したとしても、おそらく膨大な数の討手にやられるだろう。ならば和田に不義理を働いてでも、三浦が生き残る道を選んだほうがいい」

という考えに至ったとしても、不自然ではなさそうです。

元々、義村は非常に冷静な人です。

後述する源実朝暗殺事件の際にもそれは現れていますので、トラブルのときほど、その傾向が強まるタイプだったのかもしれません。

この動きに対し、義時は義村を非常に高く評価しています。

義村の真意がどんなものだったか、義時がどこまでそれを知っていたのか……大河ドラマでは焦点になるかもしれませんね。

 

源実朝暗殺事件

建保六年(1218年)7月に北条泰時が侍所別当になった際、義村は二階堂行村・伊賀光宗らと共に侍所所司に任じられています。

行村と光宗は、いずれも京都の公家出身。

つまりは文官肌の人間であり、武士ではありません。

義時としては、文官タイプの二人と、武士としては冷静なタイプの義村を組ませることによって、他の武士をうまく統率していこうという腹積もりだったのかもしれませんね。

この時代の武士は、現代人には想像がつかないほど些細な理由で武器を持ち出してくることが珍しくありませんので。

義村の冷静さは、翌承久元年(1219年)1月に起きた実朝暗殺事件でも光ります。

源実朝/Wikipediaより引用

このとき、実は暗殺の実行犯である公暁が義村を味方につけようとしていました。

なぜなら義村の妻が公暁の乳母を務めていたからです。

当時の乳母は乳を与えるだけでなく教育係や後見役という面もあり、そのため夫と二人で役目を果たすことも多く、その場合、夫のほうは「乳母父」と呼ばれます。

さらに、義村の息子が公暁の弟子になっており、二重の縁と言っても過言でありません。

義村と公暁は義理の親子と師弟を足して割ったような、近い関係にあったのです。

事件の後、公暁は実朝の首を持って現場から逃走し、一旦身を潜めてから義村へ同心するよう求める使者を出しました。

義村はこれに対し、

「後ほど迎えを寄越すので、しばらくそこでお待ち下さい」

と返事を出しました。

しかし義村が用意したのは、違う意味での”迎え”でした。

彼はまず、公暁へ返事の使者を出すことによって時間を稼ぎ、その間に義時へ公暁の居場所を知らせます。

公暁(月岡芳年『美談武者八景_鶴岡の幕雪/wikipediaより引用

義時は即座に公暁討伐を決め、義村は自分の老臣である長尾定景を討手に命じました。

定景は年齢を理由に断ろうとしたものの、義村がゴリ押して引き受けざるを得なかった……とされています。老人を向かわせることによって、公暁の油断させようとしたのかもしれません。

一方その頃、なかなか迎えが来ないことにしびれを切らした公暁は、三浦邸へ向かっていました。

定景らは迎えを装い、たまたま行き合わせたということにして公暁を油断させ、鶴岡八幡宮の裏で公暁を組み討ちしています。

ちなみに、名字からもわかる通り、長尾定景は戦国大名・上杉氏の家臣となった長尾氏の先祖にあたる人物です。

定景の生年は例によって不明ですが、治承四年(1180年)【石橋山の戦い】では平家方で参戦していますので、その頃には既に成人してそこそこの年数が経っていたでしょう。

その上で承久元年(1219年)に老人という自覚があったとなると、1150年~1160年代前半くらいの生まれでしょうか。

 

承久の乱

閑話休題。

実朝暗殺事件については謎が多く、古くから黒幕の存在が疑われてきました。

その中には「義村が実朝暗殺に一枚噛んでおり、最後の最後で公暁を裏切って証拠隠滅した」という説もあるほどです。

しかし、義村が実朝を始末したとしても、将軍の座に取って代われる立ち位置か?というと、そういうわけでもありません。

実朝の母であり、”尼将軍”とまで呼ばれた北条政子も存命でしたので、少なくとも義村が公暁と組んだだけでは、クーデターを成功させられた可能性はかなり低かったでしょう。

義村が義時と組んで陰謀を巡らせていた場合は、その限りではありませんが……。

これは私見ですが、義時の性格からすると、排除すると決めたら「甥も姉もまとめて始末しにかかるのではないか」という気もします。

義村のこの冷静さは、ごく身近な近親者に対しても発揮されました。

これまた鎌倉時代の大事件、承久三年(1221年)5月に起きた【承久の乱】。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

このとき、義村の弟・三浦胤義は後鳥羽上皇方につきました。そして義村のところにも同心してほしいという使者が来たのですが、彼は使者を追い返します。

さらに、あらぬ噂が流れる前に、胤義からの書状を持って義時のもとへ出向き、

「私は上皇方につくつもりはありません。幕府に尽くす所存です」

と告げたのだそうです。

もしも、こんなときモタモタしていたら、

義村の屋敷にどこかからの使者が来た

それから義村が幕府に対して動きを見せない

密かに反逆する準備を整えているのでは?

やられる前にやってしまえ!!

なんて流れになりかねません。

これまでいくつもの家がそういった手で滅ぼされてきたのを見てきた義村が、すぐに腰を上げたのは正解でした。

義村はその後、上洛する幕府軍に加わり、手柄を上げています。

ちなみに上皇方だった胤義は敗走した後、東寺で籠城戦に持ち込みましたが、あえなく自刃しました。

 

伊賀氏の変

三浦義村の冷静さは幕府内部でも非常に高く評価されていたのでしょう。

元仁元年(1224年)6月には、クーデターの片棒をかつぎかけています。

このころ義時が急死し、その後家である伊賀氏が

「一条実雅を将軍に立て、北条政村を執権に」

と陰謀を巡らせていました。

北条政村は義時の四男で、泰時とは異母兄弟にあたります。

伊賀氏の変の原因ともなった北条政村(義時と伊賀の方の男児)/wikipediaより引用

また義村は、政村が元服する際に烏帽子親を務めていました。烏帽子親は武家の男子が元服する際、烏帽子をかぶせ、後見役となる人です。

つまり、またしても義村は義理の親子に近い立場のところから、謀反の誘いを受けてしまったことになります。

どのような立場の人からも信頼され、実力を持っていることが裏目に出たような形ですね。

このときは一瞬協力しかけましたが、北条政子が直々に説得しに来たため考えを改め、幕府方に転じたとされています。

伊賀氏の変自体が政子による陰謀という説もありますが……その真偽については、ここでは触れないことにしましょう。

 

評定衆に選ばれ政治の中枢に

義村は、義時の後を継いで執権の座についた泰時にも信任されました。

前述の通り義理の父でもありますしね。

嘉禄元年(1225年)夏に大江広元北条政子が相次いで死去した後、泰時は合議制を行うために”評定衆”という政治機関を設けました。

義村はその一人として選ばれ、亡くなるまでの14年にわたって政治の中枢にあったのです。

大きなところでは【御成敗式目】の制定にも携わりました。

以降、三浦氏は幕府の重鎮として確固たる地位を築き、さらなる飛躍を……と思いきや、やはりそうはいかないのがこの時代。

宝治元年(1247年)の宝治合戦で一族の多くが滅亡させられてしまうのです。

さすがにここまで来ますと『鎌倉殿の13人』の次世代となりますので、詳細は以下の記事で御覧ください。

宝治合戦
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【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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