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【義経を支えた三浦一族の水軍】
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手で漕ぎ、弓矢で射る
戦闘用の船――というと、実は漁船とあまり変わらぬ素朴なものでした。
「準構造船」という丸木舟の上に構造物をつけたもので、弥生時代から用いられていたものです。
30メートルを超えるような大型のものですと、底をついだ「複材(または複合)刳船(くりぶね)」の出番でした。
いずれにせよ、日宋貿易船が当時最先端の技術が用いられたのに対し、戦闘用はかなり素朴な設計です。
源平合戦における水上戦闘は、馬が船になったと考えるとわかりやすいかもしれません。
小型の船に武士が乗り、漕ぎ手が動かす。
速度は4ノット程と推測。
「1ノット=時速1.852km」で計算しますと、約7.4kmになりますね。
現在の高速船は40ノット(時速74km)ものスピードとされているので、それと比較すると10分の1。当時は時速7.4キロが平均速度でした。
また、粗末な帆を張ることもありましたが、基本は安定かつ確実な人力が用いられています。
再び【石橋山の戦い】での敗戦後に目を向けますと――。
水上戦の基本は弓と長刀
『吾妻鏡』によると、8月28日早朝に頼朝一向は真鶴から出航。
現在千葉県安房郡鋸南町竜島にある上陸地に到着したのは翌8月29日のことでした。
GoogleMapの直線距離では約63kmとなりますので、時速7.4kmで進めたとすれば、約9時間で到着することとなります。
おそらくや交代しながら一日中漕ぎ続け、疲労困憊の極みだったでしょう。ドラマにおける頼朝(大泉洋さん)の疲れ切った顔が理解できますね。
この時代の船は、砲撃して船ごと沈めるような戦術・武器はありません。
接近しながら弓で射る
↓
乗り移って倒す(移乗攻撃または接舷攻撃)
といった戦術が基本となります。
船には
①漕ぎ手
②遠距離攻撃をする射手
③とどめを刺す長刀で武装した者
がセットで乗っていました。
熊手を使い船を引き寄せる動きは、この時代において特徴的なものでした。
戦闘員は遠距離を担う射手と、接近戦でとどめをさす長刀装備のものがいます。
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