北条泰時

歌川国芳作『和田合戰義秀惣門押破』の北条泰時/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

北条泰時~人格者として称えられた三代執権の生涯~父の義時とは何が違ったのか

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京で自ら法を勉強→御成敗式目を完成させる

法整備のため、北条泰時は自ら京の学者に連絡を取ります。

彼らに一通り教わり、武家に沿った内容で作ることにしたのです。

「法とは何か」

「公家の法とはどんなものか」

むろん単独で勝手に決めたりはしません。

評定衆との相談の上で編集し、貞永元年(1232年)、全51ヶ条からなる【御成敗式目】を完成させました。

【貞永式目】とも呼ばれますね。

はじめは、単に「式条」や「式目」と呼ばれておりました。

それまで武家の明文法がなかったので、他と区別する必要というか概念そのものがなかったのでしょう。

このころ六波羅探題を務めていた弟・北条重時宛ての手紙で、泰時はこの法律制定に対する並々ならぬ気合を書いています。

「これは、裁判での身分などにおける不公平を是正するための式目である」

「既に律令があるではないかと言われるかもしれないが、京都以外の土地では、律令に通じている者などほとんどいない」

「そんな場所で律令を適用しようとしても、ごく一部の者だけが恩恵を受けることになってしまう」

「この式目は、今まで文字や法律を知らなかったような、地方武士のためのものである」

自分や幕府のためではなく、武士社会のためと言い切るあたりに、泰時の人格が現れているように思えますね。

御成敗式目は、慣習・倫理観の明文化という点で、律令や現代の法律とは大きく異なります。

日本のほとんどの法律は、中国や欧米など制定する段階で当時の先進国にならって作られている(お手本がある)のですが、御成敗式目はそういった点がほとんどないのです。

「武士の、武士による、武士のための法律」

そんな風に覚えても良さそうです。

 


「土地」「建築」「係争」重視の政策

北条泰時は、法律以外にも手腕を発揮しました。

幕府関係の施設だけでなく、鎌倉周辺の宅地・港・道路の整備などの他、興福寺(奈良)・延暦寺(滋賀)の荘園地頭を置いて牽制を行っています。

全体的に見て、

「土地」
「建築」
「係争」

を重視した政策といえそうです。

まぁ、当時の武士の利益に直結するものですから当たり前と言えば当たり前かもしれません。

また鎌倉周辺の僧侶に対する綱紀粛正も行っています。古今東西、政治家と聖職者の腐敗は避けられないもんなんですね。

皆さんご存知の通り、鎌倉時代は仏教の新しい宗派が数多く生まれた時代でもあります。

歴史に名を残したのはほんの一部ですけれども、真面目な僧侶もたくさんいたことでしょう。

仏教政策の象徴ともいえそうなのが、現代にも存在する「鎌倉大仏(高徳院の銅造阿弥陀如来坐像)」です。

実は起源がはっきりしないそうなのですが、この時代の僧侶・浄光の計画に泰時が賛同・援助し、作られたという説があります。

こうして鎌倉は、政治的にも文化的にも少しずつ発展していきました。

ちなみにこの鎌倉大仏、創建当時はちゃんと建物の中にいて、青空大仏ではありませんでした。

それがナゼ今のような姿になったのか?

一説には明応7年(1498年)8月に東海沖で発生した明応地震(南海トラフ大地震)とも言われています。

M8.2~8.4という超巨大地震で津波が発生。

淡水湖だった浜名湖の陸地を削って、海と繋ぐほどの大きさだったとされ、それが神奈川方面にも及んで大仏殿を流したというものですね。

※『鎌倉大日記(かまくらおおにっき)』では明応4年(1495年)の地震津波としています

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すでに戦国初期の話ですから、後北条氏が直してもよさそうなんですけど。

その頃には、もう青空大仏で定着していたのかもしれません。

 


朝廷との関係も良好

北条泰時が人格者だったせいか。

当時の朝廷と幕府の関係は、概ね良好な時期でした。

このころ朝廷の有力者だったのが、初の摂家将軍となった藤原頼経の父・九条道家や、祖父・西園寺公経だった……というところが大きいようです。

しかし、承久の乱から20年ほど経った頃、彼らが

「そろそろ、流刑になった上皇様方が京都にお戻りになっても良いのでは?」

と言い出した時には、泰時は大反対しました。

反対したのは、上皇二人を支配下に置きたい……というより、他の公家や武士が

「なんだ、幕府に逆らっても何年かで元に戻れるのか。なら、何かあったら味方を集めて幕府を潰してやるぜ」

などと考えてしまうのを防ぐ意味ではないかと思われます。

源頼朝も、かつて伊豆に流されてから20年間(政治的には)おとなしくしておくことで、平家の目を欺いたわけですしね。

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泰時は朝廷や京都を軽んじていたわけではありません。

暦仁元年(1238年)に、将軍・頼経が上洛したときにはお供を務めています。

しかも、単に顔を出す程度ではなく、朝廷との友好関係を保つべく努力しています。

幸い、村上源氏の血を引く公家の一人・土御門定通の妻が、泰時の異母妹だったため、彼らを通じてパイプを作ることができたようです。

また、京都に「篝屋(かがりや)」という御家人の詰め所を数十ヶ所設置し、治安向上を図りました。

これは鎌倉時代を通して続き、室町時代への過渡期には、篝屋にいた御家人が各地での戦闘に駆り出されたこともあったとか。

まぁ、それも足利尊氏が六波羅探題を攻めるまでの話で、その頃には篝屋などにいた在京の御家人は、幕府を見限っていたようですけれども。

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