こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【大姫(頼朝と政子の娘)】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
後鳥羽天皇へ嫁がせようとしたものの
数年後、頼朝は「そろそろあの子も落ち着いてきただろう。何、最近調子が良さそうだ? よし、入内だ!」(※イメージです)と思い立ち、ときの天皇である後鳥羽天皇へ娘を送り込もうとしました。
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年
続きを見る
断れないようにするためなのか。今度は、政子や大姫を連れて上洛してから準備を始めるという念の入れようです。
しかも、関係各方面のあまり身分が高くない者にまで贈り物をしておくという徹底振りでした。
今度は順調に行くかな……。
そう思いきや、慣れない旅先の水が合わなかったのか、大姫は入内の前に亡くなってしまうのです。
たった19年、しかもその大部分は父親のせいで悲しみに暮れた人生でした。
上記の経緯からすると、もしかしたら自ら命を絶ったのかもしれませんね。
大姫の死の2年後には頼朝も謎の死を遂げ、さらに22年後には源実朝が暗殺されて源氏の直系は絶えてしまいます。
源実朝は将軍としてどんな実績が?朝廷と北条に翻弄された生涯28年
続きを見る
史実の源実朝は男色ゆえに子供ができなかった?鎌倉の源氏が三代で途絶えた理由
続きを見る
もしも頼朝がはじめから公家との縁談を考えていて、それがうまく行っていたら、大姫の子供を四代将軍として迎えることも出来たかもしれません。
そう考えると頼朝の自業自得というか、因果なものです。
お墓もハッキリしておりませぬ
幼少の頃に整えられた縁談が親のせいで破談になった――。
というと同じような例としては武田信玄の娘・松姫なども思い起こされます。
まだ争いをしてない頃の織田家と同盟を結ぶため、織田信長の長男・織田信忠と婚約がされたのですね。
二人は顔を会わせぬ頃から手紙で心を寄せ合い、そして結ばれぬままに終わってしまうという悲劇でした。
信長嫡男と信玄娘の切ない『恋文物語』信忠から松姫へ~信長公記118話
続きを見る
信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯
続きを見る
いずれにせよ大姫の場合、その後の救いもなく、ただただかわいそうでなりません。
素性が明らかな日本史上の女性としては、ワースト3に入るような悲惨な人生ではないでしょうか。お墓もハッキリしておりませんし。
一応、鎌倉の常楽寺というお寺に義高と並んで葬られているとされていますが、定かではありません。
というか亡くなってからじゃなくて、生きてる間に一緒にしてあげていればなぁ……(´;ω;`)
それにしても頼朝と政子の子供たちって悲惨すぎますよね。
詳しくは、以下(北条政子の生涯)記事も併せてご覧ください。
頼朝の生涯記事もありますが、子供に関しては政子のほうでマトメさせていただきました。
あわせて読みたい関連記事
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
続きを見る
北条政子はどうやって鎌倉幕府を支えたのか 尼将軍69年の生涯と実力を振り返る
続きを見る
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?
続きを見る
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ
続きを見る
戦の天才だった源義経~自ら破滅の道を突き進み兄に追い込まれた31年の生涯
続きを見る
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
渡辺保『北条政子 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
山本幸司『頼朝の天下草創 日本の歴史09 (講談社学術文庫)』(→amazon)
大姫(源頼朝の娘)/wikipedia