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【源義朝】
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逃亡先で謀殺
源義朝の厳しい逃避行は続きます。
僧兵に襲撃され、味方は討死。
都に残した頼朝の同母姉・坊門姫15歳のことを思い出すと、渋る後藤実基を説き伏せ、京都で姫の養育をするよう戻らせます。
姫の母は朝廷とも繋がりのある由良御前です。
遊女を母とする姫とは異なる後ろ盾があったのでしょう。
坊門姫は無事に生き延び、一条能保の妻となり、同母弟の源頼朝が後援を受けました。かくして彼女は京都でも存在感を見せたのです。
東近江までたどりついた義朝は、目立たぬよう味方と別れ、それぞれ東国を目指します。
義朝には三人の子である義平・朝長・頼朝、さらに平賀義宣、鎌田政清、渋谷金王丸の7人が付きました。
しかしまだ13歳の頼朝は馬上で眠ってしまい、脱落。
いったんは探しにきた政清と合流したものの、降り積もる雪の中で進めなくなり、とうとう追いつけなくなってしまいます。
馬を失った義朝は、裸足でなんとか尾張野間までたどり着くと、政清の舅である長田忠致に宿を求めました。
しかし……。
長田忠致と子の景政は、義朝の首を差し出すことを決意。
何も知らない義朝が風呂に案内されると、そこで襲われ殺されてしまうのでした。
享年38。
京都から落ち延び、わずか三日でのことで、鎌田政清も謀殺されました。
長男の源義平は京都に戻り、永暦元年(1160年)に六条河原で斬られ、二男の源朝長は落ち延びる最中に傷を負って死亡。
三男の源頼朝は伊豆へ流刑となって命を助けられます。
義朝と政清の首は京都に晒されました。
後白河院はその首を探し出し、遺骨を鎌倉へ送らせています。
義朝の妻子まとめ
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が我が子・源頼家に向かって「女好きは自分に似ている」と語りかけていました。
笑える場面のようで、確かにその通り。
頼朝の父であり、頼家の祖父である源義朝にも多くの妻子がいました。
正室:由良御前(藤原季範の娘)
三男・頼朝、四男・義門、五男・希義、坊門姫の母。
熱田神宮の宮司であり、朝廷にも深い繋がりがありました。
彼女の子である坊門姫や頼朝が生き延びたのも、この母方の影響力があったと思われます。
側室:坂東武士の娘たち(三浦義明の娘・波多野義通の妹)
長男・義平、二男・朝長の母。
三浦義明の娘は、三浦義澄の姉妹にあたります。
『鎌倉殿の13人』で三浦義村が「三浦と北条は並んでいたのに差がつけられた」と語る場面がありましたが、源氏の御曹司と姻戚関係を結んでいるという点で確かに並んでいたのです。
坂東で源氏が地盤を固めるためには、こうした姻戚関係が有用でした。
側室:遊女たち
義朝は京都と坂東を往復する機会が多い人生でした。その旅路で縁を結んだ遊女との間に、多くの子が生まれています。
六男・範頼の母である池田の遊女、夜叉御前の母である大炊の遊女・延寿、鎌田政清が殺害した姫の母である江口の遊女が該当。
範頼はのちに公卿の藤原範季に育てられました。
側室:常盤御前
七男・全成、八男・義円、九男・義経の母です。
16歳で義朝の側室となり、義朝の死後は藤原長成の妻となりました。
坂東武者の娘たちにせよ、由良御前にせよ、背景には政治的な意図があります。
道すがら縁を持った遊女とは、どの程度の愛情であったかは分かりません。
結果的に、政治色が薄く、三児を得た常盤御前の寵愛が深く思えるのは、義経伝説の脚色だけでもないのでしょう。
義朝のカリスマ性が鎌倉幕府を芽吹かせた
源義朝は興味深い人物です。
京都から見るのと、坂東から見るのとでは、評価がガラリと一変。
京都からすれば荒々しく粗暴で短気で、配慮が足りずに自滅する猪武者となってしまいます。
しかし、坂東から見れば、洗練されていて頼りがいのある御曹司となる。
若き義朝の颯爽とした姿を、坂東武者たちは忘れられなかったのでしょう。
所領争いが起こると、馬に乗った武者を引き連れて乗り込んでいく。
鎌倉に拠点を置き、共に暴れ回った日々。
そんな武勇伝を忘れられないし、あるいは父や兄からも聞かされる。
そうして坂東武者たちは、義朝への敬愛を深めていったのです。
『鎌倉殿の13人』では、義朝の遺児である頼朝に籠絡される坂東武者たちが出てきます。
「お前だけが頼りじゃ」
そう頼朝が声をかけるだけで、無我夢中でついていってしまう。
それは頼朝自身のカリスマ性だけではなく、父の栄光もそこにはあったのです。
義朝が蒔いた種は坂東で芽吹き、頼朝が育て、やがて鎌倉幕府が誕生するのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
野口実『武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか』(→amazon)
元木泰雄『保元の乱・平治の乱を読みなおす』(→amazon)
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他